よく晴れたある日のこと。今日は私と零が婚姻届を出す日だ。
「ほら、コーヒー」
「ありがと」
リビングのテーブルで婚姻届を書いていると、零がコーヒーの入ったマグカップをふたつ置いた。ひとつはブラック、ひとつはミルクと砂糖の入ったコーヒーだ。
零は私の前に座ると、ブラックコーヒーに口をつける。そのカップを置くと、頬杖をついて私の手元を見つめる。
「まだ途中か」
「うん」
本当は昨日までに書いておく予定だったけれど、私も零も仕事があるし、私はこの零の部屋への引っ越し作業も重なった。なんだかんだと提出日の今日に書くことになってしまった。
今日という日に特別なこだわりがあるわけではない。けれど、せっかくなら二人で提出しようという話もあって、二人の休みが合う今日に出そうかという話を以前からしていた。
前に書いておいた自分の名前と住所は飛ばして、本籍、両親の名前を書き進めていく。当然婚姻届なんて初めて書くものだから、間違っていないか不安になる。逐一携帯で書き方を調べながら書いているものだから、やたらと時間がかかってしまう。
「……ねえ」
「ん?」
「あんまり見ないでほしいんだけど」
それに、さっきから零がじっとこちらを見ている。視線を痛いぐらいに感じて、書きにくくて仕方ない。
「ほかにすることないんだよ」
零はそう言って、コーヒーのカップにまた口をつける。視線は私の手元から外さずに。
ここでまた文句を言っても仕方ない。私は婚姻届を書き進めることにした。
職業欄を埋めれば、あとは自分の署名だけだ。
と自分の名前を書き、印を押す。署名欄は先日私の両親に押印してもらっているから、あとは零が書くだけだ。
「はい、よろしく」
「ああ」
今度は零が婚姻届を書き進めていく。私と違って何も書いていなかったから、一番の上の名前から。「降谷零」という名前が、婚姻届に記される。
その様子を見て、ごめんと心の中で零に謝った。先ほど零に「あまり見ないでほしい」と言ったけれど、零が婚姻届を書き進める光景から目が外せない。どうしようもなく、胸が疼く。
零は迷うことなく名前、住所、本籍と書いていく。最後に印を押し顔を上げた瞬間、「そっちも見てたじゃないか」と笑われた。
「……することないし」
視線を外しながら、零に入れてもらったコーヒーにようやく口をつける。書いている最中は書くことに真剣だったし、零が書いているときはコーヒーを飲む余裕がなかった。時間がたったコーヒーは少し冷めてしまっている。
ミルクと砂糖の入ったコーヒーは、見事に私好みの味に仕上がっている。大学時代は何度もこのコーヒーを飲んできた。
「本当、よく覚えてるよね」
「なにを?」
「コーヒーの味の話」
七年ぶりに再会したあの日から、零はすぐにこのコーヒーの味を再現してみせていた。ブラックコーヒーならともかく、ミルクや砂糖の量なんて普通は細かく覚えていないものだろう。
「記憶力はいいほうだから」
「それにしても感心するわよ」
コーヒー以外にも、零は昔のことをよく覚えている。私が忘れてしまったような約束も、何気ない言葉の数々も、零は折に触れて思い出話を語り出す。
「……忘れたくても、忘れられなかっただけだ」
零が小さな声でつぶやいた言葉に、私は顔を伏せてしまった。
ただ、純粋に零の記憶力を褒めるような意味合いで言ったのに、そんな言葉を返されると思ってなかった。胸の奥がくすぐったい。表情が、崩れていく。
「未練がましいと思ったか」
「それを言ったら、私もでしょ」
私は零にすぐに言葉を返す。
零が私の想いを断ち切れなかったように、私も零のことを忘れられなかった。いや、忘れていたつもりだった。でも、再会した瞬間に時計の針はあっという間に戻ってしまった。
「それもそうだ」
零はカップに残ったコーヒーを飲み干すと、婚姻届を鞄に入れて立ち上がる。
「そろそろ行こう」
「うん」
カップを片づけて、外に出る準備をする。お気に入りのパンプスを履いて、先に靴を履き終えた零に「お待たせ」と声をかける。けれど、零はドアノブに手をかけたまま動かない。
「零?」
忘れ物? と聞くと、零は無言でこちらを向いた。そのまま少し屈んで私に視線を合わせて、触れるだけのキスをした。
時間としては、きっと一秒に満たない短い時間だっただろう。それでもその一瞬が、永遠に思えた。
「行こう」
零はようやくドアを開ける。エレベーターを下りてマンションの外に出ると、駐車場に向かわず道路へ出た。
「車じゃないんだ?」
「徒歩で行ける距離だろ。それに」
零はよく晴れた空を見上げた後、私に視線を向ける。
「歩くのも悪くない」
そう言って、零は私に左手を差し出した。私はその手を取って、「そうだね」と頷く。
青空の下、私たちは二人で歩き出した。
夢が叶う日
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17.04.24