零と結婚したことに後悔はない。洗濯物のたたみ方が違うとか、食器のしまい方が違うとか、ちょっとした差異にお互い戸惑いを感じることはあるけれど、大きな問題は今のところない。
ただ、零の仕事は忙しい。以前より余裕はあるそうだけれど、帰ってこない日はままあるし、帰宅が深夜になることは珍しくない。特にこの一か月は忙殺されているようで、私が眠っている間に家に帰って、私が起きる前にまた仕事へ行ったこともある。結婚してすぐの頃は大分余裕があったのに、また大きな事件でもあったのだろうか。
寂しいと思うことは、なくはない。けれど警察が不規則な仕事なのは承知している。土日休みの私と時間が合わないことは当然あるだろう。それをわかって私は零と結婚することを決めた。
何より、結婚しようがしまいが零の仕事が忙しいことに変わりはない。敢えて言うならこちらが期待するかしないかの差だ。結婚しているんだから会えるのが当然と思わなければいいだけの話。そうすれば寂しいなんて思わずに済むのだから。
お風呂から上がって携帯を覗くと、零から連絡が来ていた。
「今日も遅くなる」
連絡が来た時刻は午後十一時半。これは帰宅できても午前様だろう。
簡素に返事をして、携帯を机に置く。ソファにもたれかかって天井を見上げると、ふっと眠気が襲ってきた。
零ほどではないけれど、ここ最近私も忙しかった。帰宅してコンビニの惣菜を食べてお風呂に入っただけなのに、もうこんな時間だ。洗濯物は溜まっているし部屋も少し荒れている。片付けなくちゃと言う思いはあるけれど、体が動かない。
「……明日やろ」
仕事も今日で一段落したし、明日は休みだ。掃除も洗濯も明日やればいい。最近店売りの惣菜ばかり食べていたから、明日こそは自分で何か作ろう。でも、自分一人のために料理をするのはなかなか気力がいるものだ。
零は明日家にいるのだろうか。そもそも「遅くなる」と言ったけれど今日帰ってくるのだろうか。最近まともに会話していない気がする。
はあと大きくため息をついて、卓上のホワイトボードを手に取った。仕事ですれ違うことがままある私たちが何かのときに連絡できるようにと買ったものだ。クリーニングしてたスーツはクローゼットに入っているとか、シチューが冷蔵庫に入っているから温めて食べてとか、そういった小さな連絡が主だ。別に携帯で連絡してもいいのだけれど、急ぎではない要件はこちらのほうが心地いい。
ホワイトボードに「お疲れさま」と書いて、横にチョコレートを置いておく。帰ってきたら食べるなりなんなりするだろう。
リビングの電気を消して、寝室に向かう。ベッドに倒れるように飛び込むと、不意に背筋が冷たくなった。
この家は零が元々借りていた部屋だ。二人で住むにも大きすぎるこの家は、一人で夜を過ごすには恐ろしさすらある。
布団を肩まで掛けて、目を瞑る。そうすれば疲れた体はすぐに眠りに落ちていく。
「んん……」
何時間ぐらい眠っていただろうか。意識がだんだんと覚醒していく。
まだ眠いな。もうちょっと寝てもいいかな。寝ていたいな。休みだしいいかな。でも溜まった洗濯や掃除をやらなくちゃ。
まだ回らない頭でぼんやり考えながら目を開けると、その目がまん丸に開いてしまった。
私の目の前に、昨日はいなかった零がいる。零が眠っている。私の背中にきつく両腕を回して。
起きて零が隣にいることは予想できたけれど、この状態は予想できなかった。回された腕は力強く、簡単には解けない。
「……零?」
小さな声で名前を呼んだけれど、零は起きる気配すらない。安心したような表情ですっかり寝入っている。
「珍しい……」
よく見ると零は上着は着ていないけれど服がスーツのままだ。ネクタイも緩めただけで首元にある。おそらく上着もその辺に置いてしまっていないのだろう。
零がこれだけ深く寝入るのは珍しい。しかも服も帰ってきたときのままということは、きっと相当疲れているのだろう。起こさない方が、いいよね。うん。スーツは皺がついてもアイロンをかければいいし、このまま眠らせてあげよう。
私の背中に回された腕は解けなくはないだろうけれど、無理に力を入れれば起きてしまいそうだ。だったら私もこのままもう一度眠ろう。
零の腕の中は落ち着く。眠る前に感じていた恐怖は消えて、安心感が私を包む。
寂しかったのは、きっと私だけじゃない。
もう一度目を覚ますと、隣から零はいなくなっていた。けれど、寝室の外から食器の音がする。どうやら零は先に起きたようだ。
「遅かったな」
リビングに出ると、台所で洗い物をする零がそう言った。
「うん、まあ」
時計を見ればもう十時過ぎ。少し寝過ぎたけれど、疲れは取れたしたまにはこんな休日もいいだろう。
零に朝方のことは言う必要はない。零も私も疲れていた、だから寝入った。それだけのこと。
「今日は休みなの?」
「ああ。一段落したからしばらくは落ち着けると思う」
「そっか、よかった」
そんな会話をしながら、洗面所へ向かった。顔を洗って鏡を見ると、疲れのとれたすっきりした表情だ。
台所からはいいにおいがしてきた。零がなにか作っているのだろう。
同じ家に、零がいる。穏やかで温かい安心感が広がっていく。
結婚して、よかった。
*
結婚を後悔したことは、何度かある。それは相手に対する不満ではない。洗濯物のたたみ方や食器の片付け方なんて小さな差異に戸惑うことはあるけれど、そんなことが原因ではない。
「今日も遅くなる」
にそうメッセージを送って、背もたれに体を預けた。椅子の軋む音が耳に痛い。
一ヶ月ほど前から仕事がまた忙しくなった。ここ最近、まともに
と話をしていない。顔を合わせても俺が一方的に
の寝顔を見るだけのときすらある。結婚を後悔するのは、いつもこういうときだ。
自分の仕事が多忙なことはわかっていたし、
もそれを承知している。結婚しようがしまいが忙しさに変化はない。それでも、結婚という事実さえなければ、
は俺との時間を期待をしなかったはずだ。帰ってこない俺を待つこともない。寂しげな顔でひとりで眠ることもない。そして俺は、そんな
を見ることもない。
はわがままを言わない。会えない日が続いても会いたいとは言わないし、それどころかこちらの体を気遣う。わがままのひとつでも言ってくれたほうが気が楽だ。
椅子に寄りかかったまま天井を見つめていると、手の中の携帯が震えた。
のからの返信だ。
「了解、お疲れさま。睡眠だけはちゃんと取ってね」
ほら、またこれだ。恨み言でも言ってくれれば対処しやすいと言うのに。
「……よし」
体を起こして机に向かう。もう残った仕事は書類仕事だけだ。これさえ片づければ家に帰れる。
家に帰った時間は、午前二時を過ぎていた。部屋の中は当然真っ暗だ。
とりあえず、仕事はひとつ片づいた。これで明日は仕事に行かなくて済む。
は明日休みだっただろうか。そもそも今日は何曜日だったか。思考を巡らせながら、スーツをソファにかけた。
シャワーを浴びて、すぐに寝よう。そう思いながらネクタイを緩めると、テーブルの上のホワイトボードに何か書かれているのが見えた。携帯の光でそれを照らすと、「お疲れさま」と書かれた
の字が目に飛び込んだ。
携帯を置いて、ボードの横にあったチョコレートをひとつ口に含む。口の中に、甘みが広がっていく。
寝室のドアを開くと、ベッドの上で
が小さく寝息を立てて眠っている。起こさないよう、そっと隣に腰をかけた。
「……よく寝てる」
眠る
の唇にキスをした。
は変わらず寝息を立てたままだ。
結婚を後悔したことは、何度もある。
大学のときは後悔なんてすることは微塵もなかった。
を幸せにできるのは俺だけだと本気で思っていた。それが軋み始めたのは警察学校に入ってからだった。会おうとしても会えない。
に関する何もかもがうまくいかない。電話越しに聞こえる
の声が、だんだん弱っていく。一番好きな
のことを、一番苦しめている自覚があった。
俺はまた同じことを繰り返しているのかもしれない。それでも、帰ってきたときに
がいることが、寝顔でも
の顔を見られることが、うれしいと思ってしまう。この上ない安心感を抱いてしまう。
ベッドに寝転がり、
を抱き寄せる。腕の中で小さく寝息を立てる温かい。
そういえば
も仕事が忙しいと言っていた。珍しく洗濯物も少し溜まっているようだ。疲れているだろうからちょっとやそっとじゃ起きないだろう。
もう一度
にキスをする。起きる気配がないのをいいことに、もう一度。
から伝わる体温が心地いい。
後悔は何度もした。それでもこうして
の体温を感じるたびに、いつも後悔はすべて吹き飛ぶ。
自分の家に
がいる。隣で穏やかに寝息を立てている。隣で笑って俺の名前を呼んでくれる。この幸せを知ってしまったら、離すことはできやしない。
服に皺がつくだろうがどうでもいい。このまま微睡みに落ちてしまおう。
こうやって抱きしめるたびに思う。結婚して、よかったと。
Good night,baby
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17.04.30