トロイメライ

 これは夢か幻か。まどろむ意識の中、誰かが私の前髪をふわふわと優しい手つきで撫でている。時折人差し指で額を撫でられて、猫にでもなったかのような気分になる。
 細いながらに骨ばった指は、ただ触れているだけで優しさが伝わるよう。胸の奥がきゅっと締め付けられて、甘美な痛みが走る。優しいまどろみの中で、ただただ幸せを享受している。
 ごろごろとその指に甘えていると、唇に何かが触れる。額に感じた指の感触よりずっと甘いそれは一瞬で消え、ぎし、とベッドが軋む音、続けてドアの閉まる音が耳に届いた。
「ん……」
 そこまで来てようやく私の意識も覚醒する。重い瞼をゆっくり開けて、体を起き上がらせた。
 まどろみの中では夢か現実かはかりかねていたけれど、髪を撫でられたのも、キスをされたのもきっと夢ではない。きっと隣で眠っていた透がしたのだろう。
 その肝心の透は、先ほど部屋から出ていったようだ。時計を確認していないから時間はわからないけれど、窓の外は少し白んでいる。起きるには少々早すぎる時間だ。
 トイレにでも行ったのか、はたまた仕事でも入ったのか。
 時折、透は真夜中に起きて「探偵業に仕事が入って」と言って出かけることがある。いくら不規則な探偵業とは言え、こんな真夜中に頻繁に仕事が入るのは明らかに不自然だ。きっと、私に言えない何かをしているのだろう。だけれど、彼が何も言わないので、私も聞かない。ずっと、そんな関係を続けている。
 もし出かけるのであれば見送りをしたいところだ。一度大きく伸びをして、ベッドの下のスリッパに足を入れたとき、洗面所のほうから何かを叩きつけるような大きな音がした。
 何かあったのか。慌てて洗面所に駆け込むと、透がじっと鏡を見つめている。
「透……?」
 名前を呼ばれて、初めて透は私の存在に気付いたようだ。ハッとした表情で視線を鏡の中の自身から横にいる私に移した。
……。悪い、起こしました?」
「ううん、そういうわけじゃ……何かあったの?」
「コップを落としただけです。すみません、大きな音だったでしょう」
 先ほどの何かをぶつけたような大きな音は、明らかにコップを落としただけの音ではない。小学生でもわかるであろう嘘を透が私に対して吐いたということは、それ以上追求しないでほしいということだろう。
「どこか行くの?」
 だから私は、それ以上何も聞かずに話題を変えた。
「いえ、目が覚めてしまっただけです」
「そう……」
「ええ……」
 透は答えると、再び鏡の中の自身と視線を合わせる。大きく瞬きをして、もう一度。
「……寝ましょう。まだ起きるような時間じゃない」
「う、うん……」
 透は私の肩を抱くと、洗面所から出て寝室へと向かう。布越しに触れた指先の感触が先ほどまどろみの中で感じたものとまるで同じで、やはりあれは夢じゃなかったのだと思った。
「……いや」
 寝室のドアを開けたところで、透は立ち止まる。
「少し歩きませんか。もう少しで夜も明けます」
 突然の提案に私は一瞬戸惑ってしまう。
 いつも透と二人で過ごすのは私の部屋か、彼の車の中だ。外を二人で出歩いたことはほとんどない。
「いいの?」
 二人で出歩くことを避けているのは、どちらかというと透だ。夜明け前とは言え、二人で歩いてもいいのだろうか。
「あなたが構わないのであれば」
 透は奥深い瞳で真っ直ぐに私を見つめる。彼の真意を汲み取って、私は頷いた。
 最低限の身支度を整えて、私と透は手を繋いで外に出た。陽が昇る前の街は静かだ。優しく吹く風の音だけが、私の耳を刺激する。
「静かね」
「ええ」
 そう言っていると、始発電車だろうか、遠くからガタンゴトンと電車の音が聞こえ始めてきた。遠いそれはどこか違う世界のことのように感じられる。
「久しぶりですね、二人でこうやって歩くのは」
「そうだね。昔はよく歩いたもんね」
 大学時代はよく二人で近所を散歩していたものだ。二人ともアルバイトはしていたけれど、あくまで学生、そこまでお金を持っていたわけじゃない。幸い私も透も歩くことが嫌いではなかったので、よく学校帰りに手を繋いで大学の周りやお互いの家の近くを歩いていた。近所の猫の額を撫でたり、公園の桜の花を眺めたり、他愛もない話をしながら歩く時間が好きだった。
「最近はゆっくり外を歩くこともなかったからな」
「そっちは車持ってるしね」
 ゆっくりと歩きながら、ぽつぽつと話をした。段々と言葉数は少なくなり、いつしか私も透も黙って歩くだけになる。だけれど、沈黙が心地いい。強く手を握って、あてもなく歩く時間が穏やかだった。
 道なりに歩いて着いた近くの公園の高台に登ると、ちょうど陽が昇る時間になった。都会のビルの隙間から、太陽が顔を覗かせている。
「日の出、久々に見たなあ」
は朝弱いですもんね」
「朝はどうしてもね……でも、やっぱりいいなあ、早起き。なんだか爽やかな気分」
 朝日を浴びるとやはり気分がいい。早起きは三文の徳とはよく言ったものだ。
「そうですね」
 私の言葉に透も同意するけれど、その横顔はどこか寂し気だ。笑っているのに、明るい感情が彼から見出せない。
 洗面所であったことといい、何かあったのか心配になってしまう。けれど、聞いたところできっとはぐらかされるだろう。
 だから、私はそっと彼に体を寄せた。慰めになるかはわからないけれど、何かせずにはいられなかった。

 透は私の名前を呼んで、肩を抱き寄せる。その指先が少し震えていると感じるのは、私の気のせいだろうか。
「僕の名前を、言ってほしい」
 小さく頼りない声で、彼は言葉を放った。
 彼の名前。彼が名乗っている名前。彼の本当の名前。何を言えばいいか、頭の中で思考が目まぐるしく回っていく。
 私の目の前にいる人。この人は、私の。
「私の、大切な人よ」
 口から零れた言葉が、それだった。
 安室透。降谷零。どちらを答えるのが正しいのか。他の名前を答えるのが正しかったのか。わからないまま、言葉が自然に溢れ出した。
 今私の目の前にいる人は、私の大切な人。どんな名前を名乗っていても、それ以外の何者でもない。
……」
 彼は私の前髪に触れる。ふわふわと撫でた手つきは、まどろみの中で感じたものよりさらに優しくて、意識は確かに覚醒しているのに、どこか夢の中のよう。
 目を瞑ってその感触を享受していると、唇に甘い感触がひとつ落とされる。目を開けると、もう一度。
「ああ、ありがとう」
 彼の唇から、絞り出すように言葉が零れた。
 私の出した答えが、正解だったのかわからない。彼の求めていた答えは、他にあったのかもしれない。だけれど、思い付いた答えはこれだった。これしかなかった。
 この人は、私の大切な人。世界で一番、いとしい人。







トロイメライ
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16.07.25



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