大学生のときに買った浴衣は薄いピンク色のものだった。ピンクなんて私の柄ではないのではと思ったけれど、仄かなピンク色のその浴衣に無性に惹かれてしまった。
その浴衣を着て行ったあの花火大会を、零は覚えているだろうか。
「今日は浴衣の人が多いですね」
運転席に座る透が、道行く人を眺めながらぽつりと呟いた。
「花火大会でしたっけ」
「そう」
今日は都内で有名な花火大会が行われるため、道には浴衣姿の人々が溢れている。家族だったり、友人同士だったり、カップルだったり。道行く人はほとんどが笑顔で、花火大会を待ち望んでいただろうことが窺える。
「もう随分行ってないなあ……」
「僕もですね」
横断歩道の手前で、透は車を停止させる。
車のちょうど横のガードレールに寄りかかるのは、ピンクの浴衣を着た高校生ぐらいの女の子だ。派手すぎない薄いピンク色のそれは、昔自分が着たものを思い出させる。
「最後に行ったのはいつですか?」
昔に意識が行きそうになったところで、透が私を引き戻すかのように呟いた。
「大学生のときよ」
最後に花火大会に行ったのは、透と行った大学三年生の夏のときのこと。それ以前に家族や友人同士で行く機会もなかったため、あれが最初で最後の花火大会だ。
「……そうですか」
あなたと行ったときのもの、とわざわざ言わなくても透はわかっているだろう。透は少し目を細めて、遠くを見る。彼の視線の先には、なにがあるのだろう。
「薄いピンクの浴衣着てましたよね、大きな花柄の」
長い赤信号に疲れたのか、透はシートに背を預けて、ミラー越しに私を見た。
「よく覚えてるね」
一緒に花火大会に行ったのは八年も前のことだ。一緒に行ったことは覚えているだろうけれど、まさか私の浴衣の柄まで覚えているとは思わなかった。
「記憶力はいいんですよ、昔から。印象深かったですし。褒めたの覚えてません?」
「……覚えて、る」
正確には思い出した、だ。確か待ち合わせ場所の駅で会って、開口一番に「似合ってる」と言われほっと安堵したのだ。
「ピンクなんて柄じゃないけど」
「そうですか? 似合ってましたよ」
「ありがと」
透にお礼を言うと、ちょうど信号は青に変わる。ガードレールに寄りかかっていた女の子は待ち合わせ相手だろう同年代男の子と、手を繋いで歩き出した。
「浴衣もあれ以来着てないなあ」
「あのときのはもう持ってないんですか?」
「さすがに引っ越すとき捨てたよ。持っててもこの年でピンクは許されないでしょ」
「別に構わないと思いますけど、そうですね。今のあなたならもっと大人っぽいほうが魅力的ですね」
「……相変わらず口がうまいですね」
「本気ですよ?」
「残念ながら本気に聞こえないなあ」
「おかしいですね」
そんな会話をしているうちに、私のマンションに着いた。今日は透がうちに泊まりに来る日だ。スーパーのレジ袋片手に、七階までエレベーターで上がる。
「今日の夕飯は?」
「冷やし中華」
「夏ですねえ」
夕飯の用意は、いつも私の役目だ。透に手伝ってもらうこともたまにあるけれど、夕飯は私、朝食は透というのがいつの間にか習慣付いている。
「手伝いますよ」
「いいよ、簡単だし。テレビでも見てて」
「そうですか? っと、すみません」
エプロンをしてキッチンに立つと、透はポケットの携帯を手に少し緊張した面持ちでベランダに出た。おそらく大事な電話が掛かってきたのだろう。
ベランダの窓のカーテンは開けたまま出たので、キッチンから透の後姿が窺える。ベランダの透はもう片方のポケットから手帳を出して何かを確認しながら電話を続けている。どうやら長くなりそうなので、私は構わず夕食の準備を続ける。
時折電話をする透に目を奪われそうになりながら支度を続けていると、どん、とお腹に響くような重低音が遠くから聞こえてきた。
「花火の音、聞こえるんですね」
電話を終えたらしい透が、ベランダから部屋に入ってくる。
「うん、ここ音だけ聞こえるのよ。残念ながら花火は見えないけどね」
花火の行われる会場から近いので臨場感のある音は聞こえてくるのだけど、位置が悪いようで高層ビルが邪魔をして花火の姿そのものはベランダから出ても見えはしない。このマンションに引っ越してから毎年、私は音だけを楽しんでいる。
「光だけは見えますよ」
ちょいちょいと透が手招きをするので、手を拭いて私もベランダに出た。確かに、件の高層ビルに花火の光が映っている。
「こうしてるとちょっと見たくなっちゃうなあ」
花火の音を耳にして、花火の光を目に映す。こんなことをしていると、特別見たいと思っていなかった花火大会に行きたくなってしまう。
「今からじゃ間に合いませんね」
「そうね」
「来年行きましょうか」
「来年、行けるの?」
今からじゃ間に合わない、なんて言い方をしたけれど、透が私と二人での外出を避けていることは明白だ。彼が何か危ないことをしていて、それに私を巻きこまないための措置なのだろう。わかってはいるけれど、二人で出かけられないのは少々寂しいというのが本音だ。
そんなことをしている透が、来年花火大会に行こうと言ったところで行けるのだろうか。嫌な言い方をしてしまったと自分でも思ったけれど、思わず口からついて出てしまった。
「行きますよ。連れて行きます」
透は空を見上げて、花火にも負けないようなはっきりとした声でそう言った。
確固たる信念が滲む彼の目に、花火の光が映る。
「……期待しちゃうわよ?」
「二度も約束破りませんよ」
その言葉に、奥底にあった記憶が蘇る。
八年前、二人で行った花火大会。そこで確かに私たちは「また一緒に来よう」と約束をしたはずだ。結局次の年は私の就職活動の関係で行けず、次の年は透が警察学校、その次はもう連絡が取れなくなっていたので、あの約束は果たせなかったのだ。
今の今まで忘れていたあの約束を、彼が覚えているとは思わなかった。
「……よく覚えてたね」
「忘れてませんよ、のことなら何一つ」
透の目に、また花火の光が映る。
私は光だけが映る夜空を見上げて、目を瞑った。瞼の裏にも届く光と、響く重低音。そして、唇に落ちるひとつの感触。
そう、八年前のあの日も、こうやってキスをした。花火を見上げる人ごみの中で、ひっそりと。
「……あの頃に戻ったみたい」
思わず、口からそんな言葉が零れ落ちた。もう一度目を瞑ると、あのとき見た花火が瞼の裏に映る。私の目の前には二十一歳の降谷零がいて、私は淡いピンク色の浴衣に身を包む。暑い陽気の中、私たちは人ごみではぐれないようにと固く手を握った。
また、唇にあのときと同じ感触が落ちる。
「……同じじゃありませんよ」
目を開けると、透が鋭い瞳を向けてそう言った。鋭い瞳に目を逸らせず、私はされるがまま、いつの間にか彼の腕の中だ。
「あのときより、ずっと……」
「……透?」
「ずっと……」
透は苦しそうに、絞り出すように微かな声を出す。続きの言葉を、彼は紡がない。まだ、言えないことなのだろう。
「透」
透は何も言わなかったけれど、彼の言葉が聞こえた気がした。彼が言いたかったことが、何かわかる気がした。
「私も」
彼の腕の中で少し背伸びをして、彼の頬を両手で包んで、キスをした。あの頃よりずっと、甘くて熱い。
花火が上がるたびに、キスをした。唇が触れるたびに、胸の痛みが増していく。
彼の言葉の続きが聞ける日はいつだろうか。来年なんて言わなくていい。その日が来るのを、私はいつまでも待っている。
花火に言葉が消えて行く
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16.08.03
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