覚めない夢を見させてよ


※7ページ構成です。大学時代→警察学校時代→現在軸の順です。少し長め。

 その日は、よく晴れ渡った日だった。春霞なんて言葉が信じられないぐらい、地平線の果てまで見渡せそうな、澄んだ青空だった。

「警察学校って厳しいんでしょう?」
「ああ、辞める人も多いって聞いてる」
 大学生活最後の春。零と手を繋ぎながら、近くの公園を歩いている。
 今日は零が警察学校に入る前の最後のデートだ。明日から、零は警察学校に入校する。
 警察学校は休日しか携帯が使えず、休日の外出も許可がいるらしい。当然課程は厳しいし、零には想像以上に険しい生活が待っているようだ。
「零なら大丈夫でしょ」
「簡単に言ってくれるな」
「だってそうでしょ。零が辞めるようならみんな辞めてるよ」
 大学時代から零は優秀だったし、卒業時の成績も主席らしい。優秀な彼がそう簡単に辞める羽目になるとは思えない。それに、二年の秋に「警察官になろうと思ってる」と私に教えてくれたときのあの表情。あの温かで希望に満ちた表情を思えば、いくら警察学校が厳しいからといって零が音を上げるなんて思えない。
 零はきっと、大学と同じく警察学校もトップの成績で課程を終え、優秀な警察官になることだろう。
「まあそうだろうけど」
「うわあ……言っちゃう?」
「うわあ、って、そっちが言ったんだろう」
「それを同調しちゃうところが零よね」
 零は初対面のときから自信家であることを覗かせていたけれど、親しくなればなるほどにその面は露わになっていった。そこが少々鼻につくところではあるのだけれど、零の場合その自信は実力に裏打ちされたものであることが厄介だ。その自信を崩すことはそうそう出来はしない。
「自信家なのもいいけど、あんまり過信すると危ないわよ」
「わかってるさ、そういう仕事だから」
「……気を付けてね」
 歩みを止めて、ぎゅっと繋いだ右手の力を強めた。
 警察は当然危険と隣り合わせの職業だ。先日もニュースで警察官が事件で大怪我を負ったことを報道していたばかり。いくら零が優秀であろうとどこで何があるかわからない。
「もちろん」
 零は左手を繋いだまま、右手で私を抱き寄せた。平日の公園には私たち以外誰もいない。私も迷わず零に体を預ける。
「携帯、休日しか使えないんでしょ?」
「ああ。だから返信は遅くなる」
「いいよ、わかってるから大丈夫」
「会うのもなかなか難しいと思う」
「それもわかってる」
 警察学校に入って最初の一か月は外出禁止らしく、またその期間が終わっても外出には許可が必要、外泊は実家以外実質禁止と聞いている。
 私の就職先の関係で、私の部屋は零が入寮する警察学校から離れた場所に引っ越した。同じ都内なので日帰りで会える場所ではあるけれど、在学中のように簡単に会える距離でもない。
 大丈夫、全部わかっている。その上で、零を送り出そうと決めたのだ。
「私だって忙しくなるだろうし」
 私も明日からは社会人なのだから、零ほどではなくとも学生時代より忙しくなるだろう。元より学生時代のように過ごせるとは思っていない。
「ああ、そうだな。も頑張って」
「うん」
 新しい生活に不安がないわけではない。それでも、その言葉があればどこまででも頑張れる。そんな気がした。
「まだ少し歩こう」
「うん」
 零は私を離すと、手を引いて歩き出す。
 歩きながら、いろんな話をした。初めて会ったときのこと。まだただ同級生であったときのこと。付き合い始めたときのこと。大喧嘩して私が本気で怒って零が慌てた様子で謝りにきたときのこと。
 付き合ってからの二年半が、走馬燈のように思い出される。たった二年、されど二年。数え切れないほどの思い出が詰まっている。
「初めてデートした水族館、覚えてる?」
「ああ、あそこだろ? 今度リニューアルするって聞いた」
「そうそう。改装終わるの一年ちょっとだって」
 まだ付き合い始める前、零に誘われて行った水族館。付き合い始めてからもよく一緒に行っていたけれど、四月から一度閉館して改装工事をするらしい。
 リニューアルオープンは一年三ヶ月後。零が警察学校の初任科、初任総合科の全課程を終える頃だ。
「そういえば最近は行ってなかったな。改装が終わったら、また行こうか」
 零の言葉に、胸が大きく跳ねる。
 零が警察学校に入るにあたり、私も警察学校のことを調べた。そこで出てきた「警察学校に入ると、学生時代の恋人と別れることが多い」という文言が頭を過る。
「そうだね。イルカショー、また見たいな」
 でもきっと、私たちなら大丈夫だろう。根拠なんてまったくない。それでも、この繋がれた手を離す未来が、私には見えない。
「初めて行ったときにがずぶ濡れになったやつだろ」
「本当にね……なんで隣にいたのに零は濡れなかったの?」
「運かな」
「そういうとき庇うのが男じゃない?」
「あれを庇うほどの反射神経があったら人間じゃない。それにちゃんと上着貸しただろ」
「その節はありがとうございました」
「どういたしまして。確か最初に行ったときの写真、まだ残ってるな」
 零は立ち止まりポケットの中の携帯を取り出して、近くのベンチに座った。私も零の隣に座って携帯を覗き見る。
「あ、大きな鮫」
「この水族館の目玉だろ?」
「そうそう、改装した後も大きなトンネルで展示するらしいよ」
 零は水族館の写真を次々と画面に出していく。美しい色でふわふわと浮いているクラゲに目玉である鮫の水槽、ペンギンの餌やりタイム。これらは初めて二人で行ったとき以外もたびたび見ているものだけど、最初のときにしかいなかったラッコを見ていると、やたらと懐かしい気持ちになってくる。
「あっ!?」
 画像を見ていると、写真の中に零から借りた白い上着を着た私の後ろ姿のものがある。上着を借りたのはイルカショーの後、私がずぶ濡れになった後のことだ。
「撮ってたの!?」
 思わず大声で、隣の零に文句をつける。
 写真に写る私は、零に借りたぶかぶかの上着の袖をじっと見つめている。それを斜め後から撮った格好の写真は、明らかに私に許可を得て撮ったものではない。
「ああ」
「何で撮ってるの!?」
「ぐっときたからつい」
「ぐっとって……」
「男は大体こういうの好きなんだよ。第一隠し撮りはお互い様だろ」
「え……」
「俺が鮫の写真撮ってるとき、後ろから撮ってただろう?」
 零の指摘に、かあっと顔が熱くなる。
 彼の言うとおり、確かに最初零が鮫の水槽を撮っているとき、後ろからこっそり零の姿を撮っていた。震える指で携帯のシャッターボタンを押したことを、今でもよく覚えている。
「……知ってたの?」
「ああ。撮られてるなって緊張してた」
「ええ……緊張してるふうに見えなかったけど」
「いつも緊張してたさ。水族館誘ったときも、待ち合わせ場所についたときも、回ってる最中なんてに緊張してるの気付かれないよう必死だった」
 零は眉を下げて、困ったような笑顔を見せる。
「無駄に自信過剰な癖に」
 なんだか無性に照れくさくて、私は視線を逸らしてそう吐き捨てた。
 いつだって零は自信家で、私を誘ったときだって不安な素振りを一切見せなかった。最初のデートの最中も、それからの付き合いでも、零はいつも余裕の表情で、その横で私が頬を赤く染めていた。それがいつも悔しかった。
「自信があっても緊張するものはするさ」
 やっぱり自信はあったんじゃないか。即座にそう返すと、零は笑った。
「別に変な意味じゃない。俺がを好きになったように、きっとは俺のこと好きになってくれるって思ったんだ。確証なんてどこにもなかったけど、なぜか自信があった」
 そう話す零の表情はひどく穏やかだ。自分への自信じゃない。もっと優しい、甘い確証の表情だ。
「一歩間違えばストーカーの発想だけどさ」
「確かに」
 零の言葉に、思わず笑う。でも零の最初の確信は、本物になった。
「……気を付けろよ」
「え?」
「ストーカーとか、そういうの」
 突然零から出た言葉に、目を丸くしてしまう。
「一人暮らしなんだし、ちゃんと用心して」
「え、あ、うん……。そりゃ用心はするけど、どうしたの突然」
「今までも心配してたさ。ただ俺が傍にいたからそこまで言ってこなかったけど」
 零はベンチの背もたれに背中を預けて、空を見上げる。陽射しに目を細めて、小さく唇を動かした。
「もう傍にいてやれないから」
 零の放った言葉が、私の胸に消えていく。
「……一人でも大丈夫よ、私。そんな不用心に見える?」
「見えない。だからそこまで心配はしてないけど、こんな世の中だから」
「それもそうね。ありがと、心配してくれて」
「ああ。……いや、嘘だな」
「え?」
「結構本気で心配してる」
 零の言葉に、胸がぎゅっと締め付けられた。
 零の瞳は揺れている。今の言葉が本音であることを表すかのように。
「変な男もそうだけど、俺がいない間にどこかの男に言い寄られないかとか、ちょっと怖い」
「……それはこっちの台詞なんだけど。可愛い女性警察官に言い寄られて揺らがない?」
 零こそ、この顔だ。私のいない間に警察官に限らずどこかの美人に迫られたりしないだろうかと、これでも心配している。零が浮気するなんて思ってないけれど、不安な気持ちは湧いて出てしまう。
「揺らがないさ」
「本当に? 浮気したら殴り飛ばすわよ」
「それは……怖いな」
 零は目を泳がせて肩を竦める。いつかの大喧嘩でも思い出しているのだろうか。さすがに喧嘩をしても殴ったことはないけれど、本気で怒って零を驚かせたことは一、二度ある。
「……ごめん、嘘」
 殴り飛ばすなんて言ってみたけれど、それは少し違う気がした。本気で零が浮気するなんて思っていないけれど、ふと想像する。零がもし、どこぞの女の子と何かあったら。
「……浮気したら、多分泣く」
 もしそんなことがあったとしたら。想像すると、怒りが湧くより先に涙が浮かびそうになる。
 ぽつりと小さな声で呟くと、零は一度私に視線をやってから、下を向いた。
「……それは、本当に怖いな」
 悲し気な声で放たれた言葉を、私はうまく捕らえられない。言葉は宙に浮かんで消えて行く。
「……そっちは? 私が浮気したら泣く?」
 何を言えばいいか迷って、少し冗談めかしてそう聞いてみる。
は浮気しないだろ」
「もしもの話でしょ。第一さっき何かないか心配だって言ってたじゃない」
「そりゃは女性なんだから、何か巻き込まれたりしないか不安になるさ。でも浮気や他の男に靡く心配はしてない」
 きっぱりと言い切る零の瞳は真っ直ぐで、確信の色に満ちている。私のことを信じてくれるのは嬉しいけど、先ほど少しでも「もし零が他の女の子と何かあったら」と想像した自分が恥ずかしくなる。零はこんなにも信頼してくれているというのに、私はなんだか居た堪れなくなって、思わず強がりを絞り出した。
「わからないよ? いい男がいたらそっち行っちゃうかも」
 たとえどんな人がいたところで、私が零以外の人に行くはずもない。だけれど、あまに自信満々に言われると少し逆らってみたくもなる。
「行かないさ」
「すごい自信。俺よりいい男はいないだろって?」
「さあ、それはわからないけど」
 零はひとつ呼吸を置いて、はっきりとした声で紡ぎ出す。
を幸せにできるのは俺だけだって自信ならある」
 言葉と同時に、零の右手が私の頬に触れる。温かい手に、私の胸は締め付けられる。
 どうしようもなく、この人が好きだ。自信家で、ときどきちょっと口から嫌味がこぼれることがあって、いつも冷静沈着で、でもその胸の内には感情を秘めている、この人が。
「本当、すごい自信」
「当たってるだろ」
「当たってるよ」
 たまらなくなって、私は零に体を寄せた。頬と手だけではなく、もっと触れたくなった。
 零はもう一度私の頬に触れると、ゆっくり顔を近付けてキスをする。唇から全身に、幸せの色が広がっていく。
 零の言うことは本当だ。零の他に傍にいるだけでこんな幸せを感じられる相手を、私は知らない。知りたいとも思わない。

 零の熱を孕んだ声が私の名前を呼ぶ。たったそれだけのことで心がかき乱されるほどに、私の心は零でいっぱいなのだ。
「返信は、遅くなるけど絶対にするから」
「うん」
「電話もする」
「うん」
 零は私を抱きしめながら、溢れ出る言葉を小さな声で紡いでいく。
 いくら警察学校が厳しいからと言って、これが今生の別れになるわけではない。それでも、この小さな別れを惜しむほどに私は零が好きだ。そしてその想いは、零も同じなのだ。
「……もう帰らないと」
「……うん」
 真上にあった陽はいつの間に傾き始めている。離れ難いけれど、いつまでもこのままというわけにはいかない。
「髪切るんでしょ」
「ああ」
「写真撮っておいてよ、見たいから」
「断る」
「短髪も似合うと思うけど」
 くすくす笑いながら、私は零と手を繋いで自分の部屋までの道を歩いていく。もうこんなふうに歩くことは、しばらくないのだろう。
 澄んだ青空は深いオレンジ色になり、吹く風は涼しくなった。別れのときが、近付いている。
 いつの間にか私たちの間には沈黙が流れていた。ただ黙って手を繋いで歩き続けて、私の住むマンションの前に着く。就職のために引っ越したここは、駅から歩く代わりに閑静な場所にあって、まだ一週間しか住んでいないけれどお気に入りの場所である。
「……じゃあ」
 いよいよ別れの時間だ。繋いだ手を離すのが惜しいけれど、ここで駄々をこねるほど子供ではない。
、大変だろうけど、頑張って。応援してる」
「うん」
 餞の言葉が胸に沁みる。きっとこれから大変なこともたくさんあるだろうけれど、きっとその言葉で頑張れる。そう思える。
「零も頑張ってね。零の夢なんでしょう?」
「ああ」
 穏やかに笑う零の顔が愛しい。希望に満ちたその顔は、きっとすぐに立派な警察官になるだろうことを思わせる。
 餞の言葉の代わりに、キスをした。背伸びをして、彼の胸に手を添えて、触れるだけの小さなキス。
 唇を離すと、今度は零からキスをする。強く抱きしめられて、惜しむように何度も何度も繰り返し。
 何度口付けを交わしただろう。頭が呆けてきた頃に、零は小さく唇を動かした。
「好きだ」
 零の言葉が、私の胸にナイフのように強く突き刺さる。
「私も、好きだよ」
 私も、零が好きだ。世界中の誰よりも、零が好き。この小さな別れを惜しむほどに。
「……もう、本当に行かないと」
「……そうね」
 もう本当にお別れの時間だ。できることならずっとこうしていたいけれど、それはできない。私にも零にも自分の夢があるのだから。 
 零は最後に、私の左手の薬指にキスを落とす。そこには、誕生日に零からもらった指輪がある。もらってからずっと、その指輪はそこにはめられている。そして、きっとこれからもずっと。
、じゃあ、また」
「うん、またね」
 今度こそ、零の後ろ姿を見送った。最後は笑顔を作ったけれど、ちゃんと笑えていただろうか。
 小さくなっていくその姿が、だんだんと滲んでいく。
 泣く必要などどこにもない。最後の逢瀬になるわけではないのだから。
 わかっているのに涙は止まらなくて、私は拭うこともせずに涙を零し続けた。






覚めない夢を見させてよ
←花火に言葉が消えて行く 
16.08.19



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