”警察学校はどう? 私のほうは毎日仕事に慣れるのに必死。入社前に勉強したつもりだったけど知識不足だなって実感してる。勉強しなくちゃいけないことたくさんあって大変。しばらくは勉強の毎日かな。
そっちも大変でしょう? 返事は落ち着いたらでいいからね。体調には気を付けて”
零宛のメールの文章を作って、送信ボタンを押したのが仕事を始めて一週目の土曜日だった。早ければその日に返信が来るだろうけれど、すぐに来ることは期待していなかった。休日以外携帯使用禁止、特に最初の一ヶ月はかなり厳しいらしいから、来なくても仕方ないと思っていた。
零からの返事が来たのは、次の週のことだった。
”返信が遅くなって悪い。俺もと似たようなものだよ。しっかり勉強してきたつもりだったけど、まだまだだな。勉強しないといけないことがたくさんあって、しばらくは忙しそうだ。
も体調には気を付けて。じゃあ、また”
返信が来たのは、喫茶店で専門職の勉強をしている真っ最中だった。すぐに返信をしようかと思ったけれど、迷った末に携帯を机に置いた。
あまりにすぐ返信をすると、零もすぐ返信しなくてはと思ってしまうかもしれない。疲れているだろう彼の負担になりたくなかった。
それに、私も勉強の真っ最中だ。きちんと目の前の教材に集中しなくてはいけない。なるべく早く一人前になりたい。もともと憧れていた職業というのもあるし、何より今警察官になろうと奮闘している零の隣に立って恥ずかしくない人間になりたい。
我ながら、随分と殊勝だと思う。でも、それが今の私の本当の気持ちだ。
家に帰って零へのメールを送る。その返信が来たのは、また一週間後だった。電話してもいいかという文章がついていたので、家で家事をしていた私はすぐに零に電話をかけた。
「……もしもし?」
「あ、もしもし零?」
ツーコールで零は電話に出た。後ろは何も音がせず、どこか静かな場所にいるようだ。
「ああ、久しぶり。そっちはどう?」
久しぶりに聞いた零の声が、胸に染み渡っていく。いや、久しぶりと言ってもたかだか二週間だけれど、学生時代は一週間声を聞かないということはなかったから、やたらと懐かしく感じてしまう。
「忙しいよ。残業もあるし、勉強しなきゃいけないこといっぱいあるし。毎日家事するのもぎりぎりって感じ。そっちは? やっぱり大変?」
「ああ。でもどうにかやれてるよ。布団に入ると毎日泥みたいに眠ってるけどさ」
「そう……。体調には気を付けてね」
「そっちこそ」
「私は大丈夫だよ。体力使う仕事じゃないし」
「大学時代ひどい風邪引いたの覚えてないか? 看病するの大変だったんだけど」
「……お、覚えてますけど」
「あのときも体調悪そうとしてるから俺が大丈夫かって聞いたのに無理して拗らせたんだろ。ずっと付きっきりで看病して」
「わかった! わかりました! ちゃんと気を付けます」
「ああ、気を付けて」
零は笑いを滲ませた声で私の言葉に返事をする。
それから、私たちは他愛もない話をした。互いの近況報告、ほんの少しの思い出話。それらを話していたら、時間はあっという間に過ぎていく。
「……ああ、もうこんな時間か」
零の言葉を聞いて時計を見れば、電話を始めてから一時間も経っている。先ほどの話の中で零には課題が出ていることも知った。その課題をこなす時間や、他の雑務をする時間を考えれば、そろそろ電話を切らなくてはいけない。
「そうだね、じゃあ、そろそろ」
「ああ」
「うん……」
「ああ……」
そろそろ、と言ったのに私も零も電話を切ろうとしない。私も彼も、この電話を終わらせるのが惜しいのだ。
「……だめだな。このままじゃ一生切れない気がする」
「……ん」
「またかけるよ」
「うん、私も電話する」
次に声が聞けるのはいつだろうか。休日は携帯が使えると言っても、わざわざ携帯を教官に返してもらわなくてはいけないらしいので、毎週気軽に携帯を扱えるわけではない。零には課題も多く出ているようだし、真面目な零のことだから、それらを完璧にこなすために多くの時間を費やすことだろう。
零は見た目で誤解されがちだけれど、内面はとても真面目だ。大学時代から出された課題は教授の要求以上に完璧なものに仕上げていたし、授業の予習復習も欠かさない。零は元々優秀ではあるけれど、それの作業をこなすのに多くの時間を費やさないわけがない。空いた時間は図書館や講義室で勉強していたし、帰った後も授業ではやらないようなさらに奥深い専門まで自主的に学んでいた。自分の目標のために人並以上の努力を欠かさない零は、きっと警察学校での勉学も大学時代と同じような行動を取るだろう。自分の夢のために。
「……大変だろうけど、頑張ってね。零の夢、応援してるから」
「……」
電話を切る前、最後の言葉のつもりで言った。二週間前の別れの際にに言ったあの言葉を言って、零がきっと相槌を打って、「じゃあ、また」と続けて電話を切るつもりだった。
だけれど、零は私の言葉に何も返さない。相槌を打ちことも、「も頑張って」と言うこともしない。ただ、黙っているだけだ。
「零?」
「……もう一回」
「え?」
「もう一回、言ってくれ」
もう一回。少し掠れた零の声に促され、私はゆっくり言葉を紡いだ。
「……大変だろうけど、頑張ってね。零の夢、応援してるから」
先ほどの言葉を、一言一句違えず口にした。ゆっくりと、ひとつひとつの言葉を噛みしめて、精一杯の思いを込めて。
「ああ、ありがとう」
「ん、このぐらい……」
「も頑張って。応援してるから」
「ありがとう」
「声が聞けてよかった」
「……私も]
「」
零がひどく優しい声で、私の名前を呼ぶ。その声が耳に届いた瞬間、心臓をぎゅっと掴まれたかのように、私は動けなくなってしまった。
「好きだ」
ドクンと、大きく心臓が鳴った。
付き合い始めてから何度その言葉を言われただろう。何度も聞いてきた言葉が、私の全身に染み込んでいく。何度も聞いてきたはずの言葉が、こんなにも幸せに聞こえる。涙がじわりと広がって、目の前が歪んでいく。
「私も」
喉の奥から、ようやくその言葉を絞り出した。掠れて滲んだ声で、色っぽさの欠片もない。それでも、電話の向こうで零が笑った気がした。
「……じゃあ、本当に切るよ」
「……うん」
「じゃあ、また」
「うん、またね」
少しの沈黙の後に、電話がぷつりと切れた。ツー、ツー、と嫌な音が電話口から聞こえてきて、ようやく私は携帯の電源ボタンを押した。
次に声が聞けるのはいつだろう。会えるのはいつだろう。抱きしめ合って、キスをできるのはいつだろう。
あの優しい声で、もう一度私の名前を呼んでほしい。私の大好きな、あの声で。
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16.08.19