カウント0の魔法

 職場から最寄り駅までの徒歩五分の道のりが異様に遠い。足を一歩前に出すのがやたらと億劫だ。
 足取りが重い原因は、右手にぶら下げた紙袋にある。そこに入っている、格式張った台紙の中の写真。取引先の年輩の女性が半ば無理矢理私に押しつけてきたそれの中身をまだ見てはいない。
 これから電車に乗って、また自分の家までの道を歩かないといけないと思うと余計に疲れがやってくる。ため息を吐きながら、駅前の横断歩道を渡る。すると、ひとつの車がクラクションを鳴らしてきた。信号無視でもしてしまったかと思い慌てて信号機を確認するが、青の表示だ。頭の中にクエスチョンマークを浮かべていると、車の主が窓から顔を出してきた。
「僕ですよ、僕」
「あ……」
 クラクションを鳴らしてきた白い車の主は、透だったようだ。普段透と同じ車種の車を見ると彼のことを思い出しているのだけれど、今日は上の空で目の前の車が彼のものだと気付かなかった。
「ボーッとしてどうしました?」
「ちょっと仕事のことで……」
「そうですか」
「そっちも仕事?」
「ええ、依頼人と打ち合わせした帰りです」
 会話をしながら、私は自然に助手席に乗り込んだ。もともと今日は、透が家に来る約束の日だ。
「早いわね」
「ええ、約束の時間より早くなりそうなのでその辺りをぶらつこうかと思ってたんですが、ちょうどあなたが歩いてるのを見かけたので」
 シートベルトを締めると、透が車を発進させる。
 重い足を動かして歩く必要がなくなったことはうれしいけれど、今の精神状態で透と二人というのもそれはそれで気まずいものがある。
「荷物、ずいぶん多いですね」
「ん、まあ……職場の人にお土産もらったりとかして。ねえ、夕飯カレーでいい? 昨日作りすぎちゃって」
「構いませんよ」
 車はいつもの通りを走っていく。車中で彼がポアロであった話を始めるので、笑いながらそれを聞いた。
「体調悪いんですか?」
「えっ?」
「またボーッとしてますよ。体調よくないなら病院寄りましょうか」
「あ……ごめん」
 話を聞いているつもりだったけれど、どこか右から左になっていたようだ。話を聞くふりは上手な自信があるけれど、透相手には通じない。
「ちょっと疲れてるのかも」
「そうですか。寝てていいですよ、すぐに着いちゃいますけど」
「……ん、ごめん」
 眠いわけではないのだけれど、私は目を瞑って寝たふりをした。
 上の空の原因は、今私の足下にある紙袋、その中に入った一枚の写真だ。
 取引先の年輩の女性がいたく私を気に入ってくれたらしく、うちの甥よ、なんて言ってお見合い写真を持ってきた。私にはもったいないお話です、とお断りをしたにも関わらず、「写真だけでも」と言って彼女は譲らない。取引先である以上あまり無碍にもできず、私はお見合い写真を持って帰ることになってしまった。
 二十九歳、周りから結婚を突っつかれる年であることは自覚していたけれど、本当にお見合いを勧められるとは。今時お見合いを勧める人がいるとは思っていなかった。なんと言って断るべきなのだろう。今は仕事で手一杯と言うがやはり一番だろうか。恋人がいるので、はどうなのだろう。一番引き下がってくれそうではあるけれど、今隣にいる人間を恋人と称していいものか。
 今私の隣にいる彼の本名は降谷零。私の大学時代の恋人だ。数ヶ月前喫茶店で再会してから彼が私の家に週に一、二度泊まりにくる関係を続けている。
 再会したとき、彼は安室透と偽名を使って、表向きは探偵業兼喫茶店のバイトをしていた。私もそれに合わせて彼を透と呼んでいるけれど、本当のところは何をしているのか知らない。どうやら危ないことをしているようだけれど、彼は詳細を教えてはくれない。
 だけれど、彼が大学卒業後警察学校に行ったはずだ。その後連絡が取れなくなってしまったけれど、彼の優秀さであれば警察学校はトップクラスの成績で卒業したであろうことは想像に難くない。そして、彼がそう簡単に警察官になる夢を諦めるとも思えない。第一、警察官をやめて探偵兼バイトをしているのならそのまま「降谷零」という名前で生活していればいい。
 それらのことを総合して考えれば、きっと彼は警察関連の仕事で偽名を使って今の仕事をしているのだろう。もちろんそれに確証はない。しかし、きっと正解に限りなく近い自信がある。
 そして、私がここまで気付いていることに、透もきっと気付いている。彼は聡い人間だ。
 偽名を使っている彼を、「恋人です」と紹介するのは憚られる。だから、私は彼のことを誰にも話していない。
 もちろん、件の女性に「恋人がいるから」と断ったところで恋人の紹介まで行くとは思っていないけれど、今時お見合いを勧めるような人だから根掘り葉掘り聞かれるのは目に見えている。あまり彼のことを話したくはないのだ。何かの拍子に私からボロが出たら、彼に対して立つ瀬がない。
 ここはやはり、「今は仕事で手一杯」と言って断るのが無難だろう。
「着きましたよ」
「え……あ」
 目を瞑って考えていたら、いつの間にかマンション近くの駐車場に着いている。慌ててシートベルトを外していると、透が私の足元の荷物を颯爽と取った。
「あ……」
「持ちますよ、このぐらい。疲れているんでしょう?」
「い、いいよ。大丈夫」
「遠慮せずに」
「いいってば!」
 鞄を持ってもらうのも気恥ずかしいけれど、それ以上に例の写真の入った紙袋を持たれるのは困る。慌てて彼の腕から紙袋を奪った。
「……あ、あの、こっちだけでも持つから」
「……そうですか」
 透は明らかに怪訝な表情で私を見ている。こんなふうに慌てた様子で紙袋を奪い取られては当然のことだろう。それでも、透にお見合い写真の入った紙袋を持たれるわけにはいかない。
「じゃ、行きましょうか」
 二人で車を降りて、すぐそこの私のマンションの部屋に向かった。右手に持った紙袋は、重い。

 エレベータで七階に上がって、自室の鍵を開け中に入る。そうしている間も、悶々と紙袋の中の写真のことを考えている。
 断りの文句は決めたけれど、このことを透に話すべきか否か。どうせ断るのだから話しても意味はない気がするけれど、秘密にしておくのもすっきりしない。
 やはり、ちゃんと言おう。カレーを食べているときにでも、さらっと簡潔に、深刻ではない様子で話せばいいだろう。
 そう決心して、私は紙袋をソファに置いた。
「休んでていいですよ」
「いいよ、大丈夫」
 心の中にもやもやがあっただけで、疲れたり体調が悪いわけではない。夕飯の準備をすべて透に任せるのは申し訳ない。
 袖を捲りエプロンを手に取り、キッチンに立つ透の隣に並んだ。
「車の中で寝たから疲れも取れたし」
「そうですか、上の空なのはあの紙袋のお見合い写真のせいかと思ってましたが」
 彼の言葉に、私は手に取ったエプロンを落としてしまった。
「え!? な、なんで……中身見たの!?」
 車の中で私が目を瞑っている間に、こっそり中身を見ていたのだろうか。ぱっと見ただけでは、ただのお堅い写真の台紙が紙袋に入っているだけのはずだ。
「見てませんが、それが写真の台紙だってことぐらいわかりますよ。の仕事柄そんな大仰な台紙で写真を持ち帰ることはまずない。誰かに私用でもらったものだろうけど、台紙の雰囲気、あなたの年齢を考えればお見合い写真の可能性が高いですし、僕に持たせたくないというあなたの態度が何よりの証拠でしょう」
 ああ、そうだ。透はこういう人だった。少ないヒントで正解を導き出してしまう。隠し事をしては、いつだって見抜かれてきた。今回もまったく同じだ。
「僕に隠れてお見合いですか」
「別に隠してたわけじゃ……。今日取引先の人にお見合い話持ってこられて一回断ったんだけど、写真だけでもって押し付けられたの。明日またちゃんと断るわ。透にはご飯でも食べながら話そうと思ったんだけど」
「そうですか」
 透は温度のない声を放つ。明らかに不機嫌なその態度は、私の話が嘘だと思っているのだろうか。
「……本当よ?」
「別に疑ってませんよ」
「じゃあなんでそんな不機嫌なのよ……」
「あなたに怒ってるわけじゃありませんから」
 透は少し屈んで、私にキスをする。短いキスの後、すぐに目を開けると、彼は顔を近付けたまま口を開く。
「ただ少し、妬いてるだけです」
 私の腰に腕を回して抱き寄せる透の言葉に、私は目を丸くしてしまう。
 透は一見感情の上下が激しいように見えて、その内面ではまったく動いていない。いつも冷静に物事を見ている彼が妬いていると言っても、にわかに信じられない。
「妬くんだ?」
「僕だって妬きますよ。大学のときはよく虫を追っ払ってたんですけど」
「え、なにそれ……。初耳なんだけど」
「見えないところで動くのは得意でね」
 透は得意げな顔で微笑んで、もう一度キスをする。先程より長いキスに、酔ったように頭がぼうっとしてくる。
「……ちゃんと断るわよ?」
 普段感情の底を見せない透に妬かれる気分は悪くないけれど、きちんと断ることは念を押しておかなくては。
「断っていいんですか?」
「え?」
 突然言われた言葉に、素っ頓狂な声を出してしまう。妬いていると言ったくせに、断っていいのか聞くとは一体どういうつもりなのだろう。
 何か含みを持たせていることは確かなのだけれど、何を言葉に孕んでいるのかそのまま聞くのは悔しい。心理戦で透に勝てる気はしないけれど、少しは抗いたい。
「写真、見たんですか?」
「見てないけど……」
 お見合い写真を見る気は元々なかった。断るのは確定事項だから、見たところで何の意味もない。このままお見合いを勧めてきた女性に彼女に返すつもりだ。
「海外俳優顔負けの容姿かもしれませんよ」
「透がそれ言うの?」
 透だって端正な顔立ちで、聞けば十人が十人とも彼を容姿端麗と評するだろう。そんな透がそれを言うと嫌味にすら聞こえる。
「どこぞの資産家かもしれない」
「透だって結構持ってるんでしょ。毛利さんに授業料大分払ってるって聞いたけど?」
「いやだなあ、大したことはないですよ」
「ふうん……」
「こんな嫌味を言う人間じゃないかもしれませんよ」
「……それは否定できないけど」
「ちゃんと他人に恋人と紹介できる人かもしれません」
 その言葉に、私は声を詰まらせてしまった。「嫌味を言う人間」という評以上に、その言葉になんと返せばいいかわからない。
「……ねえ、さっきからそう言ってばっかりだけど、私にお見合いしてほしいの?」
 少し悔しいけれど、もう観念して素直に聞くことにした。
 妬いていると言っておきながら、透はお見合いを勧めるようなことばかり言ってくる。自分なんかやめておけと、暗に言いたいのだろうかと疑うほどに。
「まさか」
 透は笑って、私の頬を撫でた。また少し屈んで、私の耳元に唇を寄せる。
「それでも俺の方がいいと言ってほしいだけです」
 囁くような声に、かあっと耳から熱くなる。反射的に耳を手で押さえると、その手を彼に奪われた。
「言ってくれません?」
 なんてずるい人だろう。全部わかっているくせに。たとえお見合い相手が透の言うような人でも、私が透を選ぶことを。それ以外の選択肢なんて、私の中にないことを。
「……言わせてみせてよ」
 そう言うと、透は細めていた目を丸くして、もう一度唇に弧を描く。
「随分挑発的ですね」
「そういうほうが好きでしょう?」
 本当はすぐに言えるぐらい私の思いは固まっているけれど、それを素直に言うのは悔しい。だから少し強がってみたけれど、きっとそれもすぐに彼の前で崩れ落ちるだろう。
「ええ、そうですね」
 透は熱の籠った声を囁くと、何度目かわからないキスをした。
 おそらくきっと、私はすぐに彼の望みの言葉を吐くことになる。

 カウントダウンが、始まった。





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16.07.05



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