毎週火曜は、三限目の必須科目の英語の講義と五限のゼミまでの時間が空いている。大学生というのは空き時間も多いもので、その時間を昼寝に使う学生もいれば、図書室で一人自習をする学生もいる。私も他の曜日の空き時間は図書室で自習をするか本を読むかなのだが、火曜だけは他の用がある。
三号館の一階の隅にある図書室に近い教室で、私はいつも彼を待っている。
「ああ、ごめん。遅れた?」
後ろの扉から、本を数冊持った男性が一人入ってくる。
彼の名前は降谷零。私の同級生で、先月から付き合い始めた私の恋人だ。
「ううん、平気」
「前の講義が長引いて」
降谷くんはそう言って私の隣に座る。
お互いの空き時間がかぶると、手近な教室に集まって彼と共にお互い専攻している科目の勉強をしている。それが付き合う前からの彼と私の習慣だ。
「はい、これ」
降谷くんが手渡してきたのは数枚のレポート用紙だ。中身を確認してみると、ゼミの教授の講演会のまとめだった。
「家の用事で行けないって言ってたから」
「ありがと」
中身はざっと見ただけでも教授が講演したことがよくまとめられていて、講演を受けて更に彼が調べたことまでつけられている。下手な教科書や参考書より、ずっと勉強になりそうだ。
「あとこれ、講演会の中で出てきた本」
「え、借りちゃっていいの?」
「もう読み終わったから。いろいろ書き込んであって悪いけど」
降谷くんが鞄から出したのは一冊のハードカバーだ。講演会はついこの間だったというのに、もうこんなに読み込んだのか。
「面白い本だったよ」
「ありがと、ちょっと読ませてもらうね」
そう言って私は降谷くんがくれたレポートに視線を落とす。降谷くんは降谷くんで、先ほど図書館で借りてきたらしい本を読み始めた。
いつも、この時間はこんなふうに過ごしている。各々勉学に励み、ときどきお互い聞きたいことを質問したり、ときには熱く討論をしたり。そうやって過ごせばあっという間に次の講義の始まりの時間になる。
降谷くんがくれたレポートは本当によくまとめられていて、講演会に行くより勉強になるんじゃないかと言うほどだ。
時折レポートに書き込みをしながら一回目の読み込みを終える。ふう、と一息ついて顔を上げると、隣にいる降谷くんの顔が目に飛び込んでくる。
降谷くんは真剣に本を読み進めている。読んでいるのは私も読みたかった専門書だ。彼が読み終わったら教えてもらわなくては。
そんなことを考えながら、彼の真剣な表情を見つめる。彼はずいぶんと整った顔立ちをしている。おそらく私たちが高校生だったら、私は彼のファンの女子に屋上に呼び出されていただろう。
「……どうかした?」
「え……っ」
降谷くんは私の視線に気付いたようで、本に落としていた視線を私に向ける。
「……ゴミついてる。ここ」
見惚れていた、とはなんとなく言いたくなくて、とっさに嘘を付いた。
降谷くんの髪に手を伸ばしゴミを取るふりをすると、彼は柔らかく笑って「ありがとう」と言った。少しだけ、罪悪感で胸が痛む。
恋人同士なんだから素直に言ってもいいのだろうけれど、なんとなく言いたくなかった。だって、それを認めてしまったら悔しいから。
私は降谷くんに何一つ敵わない。この講演会のレポートだって私は短時間でこんなにうまくまとめられないし、普段の成績だってそう。彼はどんな科目でもトップだし、同じ科目を取ってないから噂だけしか知らないけど体育実技もトップだとかなんとか。争うものじゃないのはわかっているけど、それでも悔しい。
一番悔しいのは、私が降谷くんに惚れ込んでしまったところだ。彼のほんの日常の仕草、小さな瞬きが、ページをめくる指の動きが、どうしようもなく私の心を狂わせる。
悔しい。悔しい。何が悔しいのかわからないけど、悔しい。どうして私はこんなに彼に心を奪われているのだろう。
視線をレポートに向けても集中できない。一度意識してしまうと、心が疼いて仕方ない。
「あ、さん」
降谷くんに名前を呼ばれて、私はレポートから顔を上げる。
「さんもゴミ付いてる」
「え、うそ」
「つむじのあたり。ああ、もうちょっと右」
降谷くんに言われて慌てて頭のてっぺんを手で探る。手のひらを広げて髪に触れてみるけど、どこにもゴミらしき物はない。
「こっち」
降谷くんはずいと身を乗り出して私の頭に手を伸ばす。体と体が近くなって、ようやく私は気付いた。
「……本当についてる?」
勉強会と言えど恋人に会うのだから、彼が来る前に鏡で最低限の身だしなみはチェックしていた。そのときゴミなんてついていなかったのだから、もしかしてと思いそう言ってみたらどうやらその通りだったようだ。
「さすが」
「嘘つき」
「それはお互い様でしょう」
降谷くんの言葉に、かあっと顔が赤くなる。彼には私の嘘などお見通しだったようだ。
降谷くんは、右手で私の髪に触れた。ふわふわと優しい仕草の一方で、私の心臓は痛いぐらいに鳴っている。
彼の瞳に、目が奪われる。日本人離れした色の瞳は、深くて底が見えない。
私たち以外誰もいない教室で、小さなキスをした。
「……勉強は?」
「ひどいな。そっちがそれを言う?」
降谷くんは軽く笑って、私を見る。
「好きな相手に熱視線で見つめれられて何も思わないでいられるほど、まだ人間はできていないので」
そう言うくせに、降谷くんはやっぱり余裕の表情だ。
私は何も言えなくなってしまって、視線を泳がせる。すると、彼の鞄から数冊の本がはみ出ているのが見えた。
「それ、降谷くんの?」
「ん? ああ」
鞄から見えたのは警察官の試験の本だ。
「警察官になるの?」
「ああ、そのつもりだよ」
今は大学二年の秋、早い人はそろそろ就職のことを真剣に考え始める時期である。
ほんの少し、意外に思う。警察官が似合わない訳じゃないけれど、もう少し違う道を選ぶのかと思っていた。
「へえ……」
「そっちは?」
「え?」
「就職、決めてる?」
降谷くんに聞かれ、今抱いている将来の展望を彼に語った。
「へえ……。さんなら大丈夫だろうね。優秀だし」
トップの成績を誇る降谷くんがそれを言うと、ともすれば嫌味に聞こえかねないのに、その言葉はすっと私の胸に落ちた。
「ありがと」
「ん……」
底に沈んでいた意識がゆっくりと覚醒する。瞼を何度か動かしたけれど、瞼が重くてうまく目が開けられない。
随分と懐かしい夢を見た。大学時代の、日常の一コマの夢。
今は何時なのだろう。枕元の携帯で時間を確認しようと目を瞑ったまま右腕を動かすと、指先に何か温かいものが触れた。
「えっ!?」
何かと思って慌てて飛び起きると、私の隣で眠っていたのは先ほど夢に出てきた大学時代の恋人、降谷零だ。数か月前に彼がアルバイトをしている喫茶店で偶然出会ってから、週に一、二回、彼は私の部屋に泊まるようになった。その、いろいろすることもあれば、昨日のように夕飯を食べてお風呂に入って、そのまま眠るだけの日もある。
ぼんやりと彼の寝顔を眺めていると、先ほどの大学時代の夢がまだ続いている気分になる。
大学時代は、間違いなく私たちは恋人同士という関係性だった。では、今は何なのだろう。
恋人とは言い難い。お互い好きだなんて再会してから口にしたことはないし、この部屋以外で二人で過ごすのはいいとこ彼の車の中だけだ。
性欲処理の都合のいい相手、というのも微妙だろう。彼の見た目なら相手なんてより取り見取りだろうに、安室透という偽名を使って表向き探偵兼ポアロのバイトをしている彼が、自身の本名である降谷零を知っている私をそんな相手に選ぶことは考え難い。
私たちの関係は、一体何なのだろう。
付き合っていた頃、大学生としては真面目な付き合いをしていたと思う。お互いの部屋に泊まることもあったけれど、避妊はきっちりしていたし、授業をサボってデートなんてこともしていない。明確に将来の話をしたわけじゃなかったけれど、私はこの先もこの人と一緒にいて、その道の先に結婚なんてものがあるのだろうとぼんやりと思っていた。それはきっと、零も同じだっただろう。
残念ながらお互い大学を卒業し私が就職、彼が警察学校に入ったとき、お互い日々の生活に忙殺され連絡をほとんど取れなくなってしまい、その先の道は続かなかったのだけれど。
「……ね、どう思ってるの」
未だ眠り続ける彼に問うてみるけれど、当然答えは返って来ない。
彼がこんなにぐっすりと眠っているのは珍しい。大学時代から私より早く起きることがほとんどだったけれど、先日再会してからはそれに拍車が掛かっている。私より遅く眠って、私より早く起きる。眠っているところを一切私に見せなかった。
そんな零が、何故か今日はぐっすりと眠りこんでいる。昨日は一日ポアロのバイトをしていたらしいけれど、そんなに疲れたのだろうか。
「ん……」
じっと零を見つめていると、彼の瞼が動いた。起きるかな、と思い私も自身の体を起き上がらせる。
「……」
「起きた? 珍しいね、こんな時間まで寝てるの」
瞼を開けた零は、青い瞳を丸くして私をじっと見つめている。
「どうしたの?」
「……」
零は目を開けても未だに上の空、意識が完全に覚醒していない様子だ。
大学時代は時たま私が零より早く起きることはあったけれど、遅く起きても零の寝起きはいいほうだった。起きたらすぐに行動を開始できるような人なのに、今日は一体どうしたのだろう。
「零?」
その名前を呼んだ瞬間、零は寝転がったままぐいと私の腕を引き寄せた。
「、えっ、な、に」
「……いや」
私が零の上に乗る形になり少々動揺していると、彼は大きく瞬きをひとつして、体を起き上がらせた。
「……なんでもないさ」
零はベッドから降りると、そのまま寝室を出てしまった。
「ご飯ぐらい食べていけば?」
「いや、遠慮しておくよ。今日は探偵業に依頼も入ってるし」
いつもは朝食を一緒に食べているのだけれど、零は早々に着替えて帰り支度を整えている。仕事ならば仕方ないけれど、寝起きの様子からして少し心配である。
「……ねえ、大丈夫?」
玄関のドアの前で、彼に思わずそう問いかけた。
いつもは疲れなんて微塵も見せない彼が、どこかその表情に暗い影を落としている。どうしても、何かあったのではないかと勘繰ってしまう。
「……ああ」
零は右手で私の髪を撫でる。ふわふわと優しい手つきで撫でられると、心まで全部くすぐられているような気分になる。
彼の底の見えない瞳に目を奪われる。大学時代より、その目はずっと深くなったような気がする。
惹かれ合うように、私たちは触れるだけの小さなキスをした。
「零」
名前を呼ぶと、零はその瞳から色を消し去った。
「僕の名前は安室透ですよ」
「え……」
先ほどまで触れていたはずの零の唇から紡ぎ出された言葉に、私は身を強張らせてしまう。
安室透、それは今彼が使っている偽名だ。彼の本名は降谷零。私が大学時代付き合っていた、好きになったのは降谷零だ。
「……じゃあ、僕はこれで」
「ま……」
待って、と言う前に彼は玄関の扉を閉めてしまった。追いかけたかったけれど、金縛りにでもあったかのようにその場から動けなかった。
あの日から三週間、零からの連絡は一切来なくなり、家にも来なくなった。こちらから連絡をしてみたけれど、何も返ってはこない。電話もただ鳴り続けるだけだ。
携帯から聞こえるコール音を聞いていると六年前のことを思い出す。彼が警察学校の課程を終えた頃、私も仕事に多少慣れてきて日常の生活にも余裕ができたので、彼に連絡を取ってみたのだ。また恋人として過ごせるかはわからなかったけれど、ほんの少しだけそれを期待して掛けた電話はただ鳴り続けるだけだった。メールも返事はおろかエラーメールすら返ってこない。もし私と連絡が取りたくないのなら、着信拒否にするなりアドレスを変えるなりするだろう。もしかして何かあったのではと怖くなったけれど、今彼が住んでいる場所は知らない。警察学校に入った際に大学時代に彼が住んでいた部屋は引き払っていたし、大学の友人に聞いても誰も今の彼を知らなかった。私はあのとき、連絡が取れなくなった彼に対して、もう何もできなかった。
しかし、あのときはあのとき。今は彼が何をやっているかわかっている。本当の仕事は知らないけれど、表向きは探偵業の傍らポアロでバイトをしているのだから。
私の足は、自然とあの喫茶店へと向かっていた。
「いらっしゃいませー」
ポアロの扉を開けると、ロングヘアーのウェイトレスが明るい笑顔で出迎えてくれる。
「あら、この間のいらっしゃった……安室さんのお知り合いですよね?」
「覚えてくださってたんですか」
「ええ」
接客業の鑑のよう笑顔を見せる彼女は、私を奥のテーブルへと案内してくれる。
「安室さん、今ちょっと奥にいますけど、すぐに来ると思いますよ」
「すみません」
「いいえ」
ソファに腰かけて、お店の中を一瞥する。今日は雨のせいか、お店の中に客は私と今レジで会計を行っている男性客一人しかいない。お店の中には有線ラジオの音楽と、先ほどのウェイトレスの「安室さーん」と呼び掛ける声が響くだけだ。
今日彼のシフトが入っているかはわからなかったけれど幸運なことに彼はいるらしい。
連絡が取れなくなったことを問い詰めたいわけじゃない。きっと彼は、この数か月の関係を終わらせようとしているのだろう。「僕の名前は安室透ですよ」と言ったあのときの言葉は、私に対する全力の拒絶だった。それがわからないほど、私は愚かじゃない。そして、去るものを追ってもどうしようもないことも、わかっている。
ただ、七年前のようになあなあで別れたくはない。ちゃんと、一度話をしたい。そうでないと、私はまたきっと、ずっと彼への想いを断ち切れないだろうから。
水の入ったコップに口をつけると、店の奥のドアが開いた。
「こんばんは」
開けたドアからひょいと顔を出してきたのは彼だった。貼り付いた営業スマイルを見せる彼はどこか遠い世界の人のようだ。
「こんばんは。注文いいですか?」
「ええ」
彼ににっこり笑いかけると、彼も笑みを深めて伝票を手にする。
「コーヒーひとつ」
「かしこまりました」
「今日のシフトは何時まで?」
「お客様、困りますよ」
彼は顔色一つ変えず、声のトーンも変えず、私が予想した通りの答えを返しててくる。まあいい。それならばこっちにも手はある。
「本名みんなにバラしましょうか?」
偽名を使ってバイトをしているのだから、本名をバラされたら困るだろう。彼のことだから何か先手を打っている可能性は高いけれど、多少なり混乱を招くだろうから彼にとっては避けたいことのはずだ。
「そうした場合危険な目に遭うのはあなたですけど」
「望むところよ」
きっと彼の顔を睨み付けると、彼は営業スマイルの仮面を剥がして目を丸くした。
「……変わってませんね、そういうところも。今日のシフトは閉店までですけど」
「あと一時間?」
「はい。部屋まで送っていけばいいんでしょう?」
「よろしくね」
そう言って彼は厨房へと入っていく。手慣れた手つきでコーヒーを淹れる仕草は、あの頃と変わらない。
本を読みながらコーヒーを飲んでいれば、あっという間に閉店の時間だ。ウェイトレスにレジを打ってもらい、私は前と同じくお店の前のガードレールに寄りかかって彼を待った。
閉店準備と帰り支度があるのでそれなりに待つだろうと思いきや、彼はすぐにやってきた。
「早いわね」
「梓さんが待たせたら悪いでしょうって言ってくれましてね。こっちです」
彼の後をついていけば、この間と同じ駐車場に白い車が停まっている。助手席に乗りこむと、彼はすぐに車を発進させた。
「話は部屋の中でいいですか?」
「別にいいわよ」
車の中では不都合な理由でもあるのだろうか。私としては車の中でも私の部屋でも、邪魔をされずに話ができればそれでいい。
車の中では、何も話さなかった。ただ降りしきる雨を、窓越しに見つめていた。
一緒にいられる時間は、あとどのぐらいだろう。胸が苦しくて、痛い。涙が零れてしまいそうだ。
「着きましたよ」
「ん」
近くの駐車場に車を停めて、私のマンションに入った。エレベータで七階を押して、私の部屋へ。
「なにか飲む?」
「水でいいです」
「はい」
コップにミネラルウォーターを入れて、ソファに座る彼の前に置いて彼の隣に座った。
一人暮らしの私の部屋に、ソファは二人掛けのものがひとつあるだけだ。こんなときに隣に座るのは憚られるけれど、彼の隣以外に私の座る場所はない。
「ひとつだけ、聞きたいことがあって」
「なんでしょう。答えられるとは限りませんが」
聞きたいことは山ほどある。どうして違う名前を名乗っているのか、喫茶店のバイトは本当はなんのためにやっているのか。今、本当は何をしているのか。しかし、おそらく確信的な質問は答えてはくれないだろう。
「あのとき、大学のときに語った夢は、今も変わっていない?」
だから、私が聞くのは、それだけだ。
あのときに輝く瞳で話してくれた「警察官になりたい」と言った彼の夢、あのときの夢は、今も彼の胸にあるのか。その夢は、変わっていないのか。せめて、それだけが知りたい。
「……変わってませんよ」
少しの沈黙の後、彼が言葉を零した。
それだけ聞ければ、満足だ。私の初恋の人は、今も変わっていない。あのときのまま、私の胸にあり続ける。
「そう……」
握ったコップをテーブルに置いて、立ち上がる。
「答えてくれて、ありがとう」
これで、本当に終わりだ。七年前に言えなかった、さよならを言う時間が来たのだろう。
「ごめんね、わざわざ来てもらって」
放つ声が震える。言葉を紡ぐたびに目の奥が熱くなる。
「もう何も聞かないし、ポアロにも行かないから安心して」
本当はこんなこと言いたくない。だって私は、まだ彼のことが好きなのだから。
「……零」
涙が零れないよう、瞬きをせずに彼を見つめる。名前を呼んだ瞬間、彼は目を伏せた。
「……僕の今の名前は、安室透ですよ」
「いいじゃない、呼ばせてよ。最後なんだから」
きっとこれが、最後になる。彼がここに来ることはもうないし、私も彼に会う用事がなければあの喫茶店に行く用はない。
甘い夢は、もう終わりだ。
「じゃあ……」
「僕からもひとつ聞きたいんですが」
さよならを言おうとした瞬間に、彼が口を開いた。
「……なに?」
「ポアロでの言葉は本心ですか」
「え?」
ポアロでの言葉、と言われてもすぐにはどの言葉か見当がつかない。首を傾げていると、彼はぐいと私の腕を引っ張り自分の体へと引き寄せた。
「……っ!?」
「危険な目に遭いますよと言ったら、望むところだと言ったでしょう」
確かにそれは言った。言ったけれど、今のこの状況が理解できない。
どうして私は今、彼の腕の中にいるのだろう。
「……もちろんよ」
考えるより先に、口が開いた。
彼が今、何か危険な仕事に従事しているだろうことは想像に難くない。きっと、周りを巻き込むほどの重大なことなのだろう。もし、そのせいで私も危険な目に遭うのなら、そんなの望むところだ。
「死ぬことになっても?」
「そんなに危ないことしてるの」
「まあ、それなりに。詳細は多分、一生言えませんけど」
ドクン、ドクンと大きく心臓が跳ねている。私はまだ、甘い夢の続きを見ているのだろうか。
「じゃあ、私からも聞かせて」
質問に質問で返すのは好きではないけれど、どうしても聞きたいことがある。
「それは嫌って言ったら、どうするの?」
そう聞くと、彼は青い目を伏せる。ひとつ呼吸を置いて、小さく、しかしはっきりとした声で言葉を紡ぎ出す。
「そうしたら、この手を離すべきなんでしょうね」
「離す気配ないんですけど?」
「困ったことに、離したくないので」
彼の言葉と同時に、腕の力が強くなる。あまり強く抱きしめられると、心臓まですべて抱きしめられているかのような気になってしまう。
「……本当はあのとき、離れようとしたんですけどね」
「離れられなくなった?」
「ええ、悔しいことに」
彼の言葉に、堪えていた涙が零れる。言い表せない感情が、全身を駆け巡る。
私はきっと、ずっとその言葉を待っていた。七年間、いや、付き合い始めた頃からずっと。
「……本当に?」
「疑り深いですね」
「誰のせいよ……」
「そのぐらいのほうが安心ですけどね」
彼は右手で私の髪を撫でて、キスをする。今まで交わしたキスの中で、一番苦くて、甘かった。
「透」
名前を呼ぶと、彼は目を細めた。
「……それが今の名前なんでしょう?」
「ええ」
彼がそう呼べというのなら、その名で呼ぼう。降谷零、安室透、他にも名前を持っているかもしれない。でも、それでもいい。私の目の前にいる彼は、間違いなく私が好きになった人だから。
「」
透が呼ぶ私の名前が、部屋の中に響く。甘い響きが、私の脳を刺激して止まない。
もう一度キスをする。今度は深くて、甘いキス。頭がぼうっとして、何も考えられなくなる。
ソファに私を組み敷くと、透は私の耳元で囁いた。
「地獄まで付き合ってもらいますよ」
「望むところだわ」
透の言葉に、私はすぐに言葉を返した。
透が望むなら、どこまででもついていく。それが地獄の果てだとしても。
二人でいられるなら、それが一番なのだから。
Time To Say Goodbye/君と旅立とう
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16.07.06
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