カーテンの隙間から差す眩しい陽光が、瞼を通して瞳を刺激する。どうやら朝が来たようだ。
気だるい体を無理に起こし、まどろむ意識を少しずつ覚醒させる。
朝は苦手だ。昔から朝早く起きることも、起きてすぐに活動することも私には難しいことだった。昨晩は眠りについたのが遅かったため、それに拍車が掛かっている。
目を擦りながらベッドの周りをぐるりと見渡すと、眠る前とは変わっていることがいくつかある。眠る前にはついていたはずの間接照明は消え、ベッドの下に二足あったスリッパは一足に。そして、昨晩隣で寝ていた男はいなくなっていた。
「帰ったのかな……」
独り言を呟きながら、上着を羽織りベッドを下りた。
未だ働かない頭の中に、昨日の出来事が蘇る。
仕事が終わり、出先から直帰する前に簡単な夕食でも済ませようと寄った喫茶店。初めて入ったそこで働いていたのは、大学時代の交際相手だった。浅黒い肌に、明るい髪色、端正な顔立ちは間違いなく昔の恋人の降谷零だ。
隣のテーブルに注文を取りに来たときに聞こえた彼の声は、大学時代と変わらない。営業スマイルの時に出る貼り付いたような愛想笑いも、だ。それどころか、見た目も七年前とほとんど変わっていないのが恐ろしいところである。
そんな中でたったひとつ、あのときと違うことがあった。彼が「安室さん」と呼ばれていたことだ。
喫茶店のウェイトレスも、顔馴染みと思われるお客さんも、全員彼を「安室さん」と呼ぶ。結婚して婿養子にでも入ったのかと思ったけれど、私のテーブルにコーヒーを持ってきてくれたロングヘアーのウェイトレスに聞いたみたところ、そういうわけではないらしい。彼の名前は「安室透」。どういうわけか、ここでの彼の名前はそれらしい。
「もしかしてあなたも安室さん目当てで? 最近そういう女性のお客さん多くって!」
「あ、いや……そういうわけじゃなくて」
ウェイトレスのトーンの高い言葉に、なんと返せばいいか少し迷った後、私は口を開いた。
「大学時代の知り合いで」
一瞬他人の空似かと思ったけれど、深い仲まで行った相手のことを間違えるはずもない。今「安室透」と名乗っている彼は、間違いなく私の大学時代の恋人の「降谷零」だ。
「へえ、そうだったんですか!」
ウェイトレスは明るい笑顔を見せると、厨房で食器を洗う彼にこちらへ来るよう大きな声で呼び掛けた。
「どうしました? 梓さん」
「こちらのお客様、安室さんの大学時代のお知り合いって聞いて」
彼は笑顔を崩さず、私を見る。一瞬、はぐらかされるかも、と思った。何しろ彼は違う名前を名乗っているのだ。昔の知り合いなど関わりたくないと考えているのが通常だろう。
「久しぶり、安室くん」
だから私は先手を打った。こう言えば、はぐらかされることはないだろう。
「ええ、お久しぶりです」
案の定、彼は笑顔でそう返してきた。周りに人がいるこの状況で、「安室くん」と呼ばれて否定したら言い合いになりかねない。ならば私に話を合わせるのが得策と判断したのだろう。
大学時代から、私たちはこうだった。恋人同士と言っても腹の探り合いをすることも少なくない。まあ、私は彼に勝てた試しがないのだけれど。
「今はこの辺りに住んでるんですか?」
「六駅ぐらい先に住んでる。今日はちょっと仕事でこっちまで来たけど」
「へえ……。あ、そろそろ戻らないと。じゃあ、また」
そう言って彼は厨房へと戻って行った。
コーヒーを飲み終わる頃には、喫茶店の閉店時間になっていた。会計を済ませようとレジに向かうと、レジを打ってくれたのは彼だった。ちょうどの金額を出してレシートを受け取ると、小さな声で彼が呟いた。
「少し待っていてください」
その言葉に驚いて財布に向けていた視線を彼に戻すと、すぐに彼は厨房へと引っ込んでしまった。
「え……」
少し戸惑いつつも、彼の言う通り喫茶店の前のガードレールに寄りかかり、彼を待つ。携帯を弄りながら待つこと約十分、どのぐらい待てばいいのか、待つ場所はここでいいのか、そもそも「待っていて」と言われたのは私の都合のいい幻聴だったのか、そんなことを考えていたら喫茶店の扉が開いた。そこから出てきたのは、エプロンを脱ぎ帰り支度を整えた彼だった。
「お待たせしました」
「用事は何?」
「冷たいですね。もう遅いので送っていこうかと。近くに車を停めていますし、積もる話もありますし」
そう言って、彼はポケットから車のキーを取り出した。
遅い時間だけれど、終電のないような時間ではない。送ってもらう必要はないのだけれど、彼の甘い誘いに私は乗った。
「ありがと」
駐車場の白い車の助手席に乗りこんで、彼が車を発進させるのを眺める。手慣れた動作に、無意識に視線が奪われる。
「住所は?」
「え……っ、あ、ええと」
彼の言葉でハッと意識を戻して、自身の住所を告げた。
「了解」
「よろしくね」
私のマンションの部屋へと向かう車の中で近況をぽつぽつと話した。仕事は順調であること、この間大学の友人の結婚式に出席したこと、諸々を話していると、運転する彼の横顔が少しだけ綻んだ。
「そっちはどうしてるの?」
「僕ですか? 探偵をやっていますよ。喫茶店の上に毛利探偵事務所ってあったでしょう?」
「ああ、あったわね。有名な眠りの小五郎の事務所でしょう?」
「ええ。彼に弟子入りしてるんですよ。ポアロのバイトは生活費のため、ですね」
「……へえ」
彼の今言っていることは本当のことではあるのだろう。しかし、確実に裏がある。
大学時代の彼を考えればいくら師匠が有名な眠りの小五郎と言っても、探偵として誰かに弟子入りする必要があるとは思えない。
何より、卒業するとき彼は警察官になると言っていた。私たちが最後に会ったのは、彼が警察学校に入る前だ。
彼が警察官になれなかったとは思えないし、志半ばで辞めたとも思えない。今安室透と名乗り探偵をやっているのには、何か裏があってのことだろう。
しかし、それを問い詰めたところで本当のことを話すとは思えない。今、二人きりの車の中でも表の顔しか出さないのは、二人きりでも言えないわけがあると推測するのは難しくない。
「でも接客業合ってるんじゃない? 人気者ってウェイトレスさんも言ってたわよ」
「いやいや、大変ですよ。……おっと、ここですね」
話をしている内に、車は私のマンションの前に着く。
「ありがと、送ってくれて」
「いえいえ、久々にいろんな話が聞けて楽しかったですよ」
シートベルトを外して、助手席側のドアを開けようと手を掛けた。しかし、その手に力が入らない。
「……お茶でも飲んでく?」
このまま彼と別れるのが惜しかった。ここで一人で車を降りてしまったら、もう二度と会えないような、そんな気がした。
悔しいことに、私の心の奥底に、まだ彼への想いが残っている。
元より、お互い嫌いになって別れたわけではなかった。大学を卒業し、私は就職、彼が警察学校に入り、お互い忙しくなり連絡が取れなくなり、自然消滅の形で別れただけだ。七年振りに会って、奥底にしまっていた感情が顔を覗かせる。
「いいんですか?」
「嫌なら、いいけど」
この深夜に、異性を家に上げることが何を示すかなんて彼もわかっているだろう。過去の恋人となれば尚更だ。
彼は少し間を空けて「じゃあ、お邪魔します」と答えた。
近くの駐車場に車を止めて部屋に上がった後は、お茶など飲むはずもなかった。そのままベッドに雪崩れ込んで、身一つになるだけだ。
彼の腕の中で、きっと朝起きたらいなくなっているのだろうと思ったけれど、その考えはどうやら的中してしまったようだ。
「……はあ、眠い……」
呟きながら、ダイニングに続く扉を開ける。飛び込んできた光景に、私は目を丸くした。
「相変わらず遅いですね」
「は……」
彼がカウンターキッチンで作業をしている。まるで自分の家かのように手慣れた手つきで、棚から調味料をを取りボウルで何やら掻き混ぜている。
「借りてるよ、キッチン。あとシャワーもさっき」
「え、あ、うん」
てっきり帰ったかと思っていた人がそこにいて、ただでさえ寝起きで回らない頭が余計に混乱する。
扉の前で棒立ちしていると、ちょいちょいと手招きをされた。吸い寄せられるように彼のもとに行けば、コーヒーの入ったマグカップを一つ手渡された。
「はい」
「……ありがと」
カウンターに寄りかかって、彼が淹れてくれたコーヒーに口を付ける。淹れ立てのコーヒーは、ミルクと砂糖の具合が見事に私好みに仕上がっている。
「……帰ったかと思ってた」
ぽつりと呟くと、彼は目を丸くした。
「そんなひどい男に見えます?」
彼の言葉に、私はなにも返せなかった。
私と付き合っていた頃の降谷零なら、そんなことはなかっただろう。だけれど、今安室透と名乗る彼が、どうするのかはわからなかった。
「……よく、コーヒーの場所わかったね」
先ほどの言葉には返さず、違う話題を振った。
彼がこの部屋に来るのは初めてのはずなのに、コーヒーやカップ、食器などを探した形跡は見られない。それどころか、今も新しい台拭きを探す様子も見せずにシンクの下から取り出した。
「変わってないから、置く場所。皿は食器棚の中段、自分用のカップは下、来客用の食器はすべて右の端」
「え」
「調味料の場所も全部言おうか」
「いい、いい。なんで覚えてるのよ、怖い」
確かに大学生の頃一人暮らしをしていた頃と家具や食器の基本的な配置は変わっていない。だからと言って、七年振りに会った彼が全部覚えているのはさすがに驚きだ。
「記憶力はいいほうなんでね」
そう言う彼は、優しい笑みを浮かべている。昨晩、車の中で話をしたときに一瞬だけ見せた笑顔と、同じ表情だ。
「……変わってないのね」
昔から彼はやたら記憶力がよかった。記憶力だけじゃない。頭の回転も早く、情報処理も早い。ゼミの発表は常に穴のない完璧な仕上がりだったし、語学の授業は発音の見本になるほど。テストの点数も常にトップという噂だった。
私も大学に入るまでそれなりに頭には自信があった。運動神経だっていいほうであり、不遜ではない自信を持っていたのだ。しかし、そんな自信は目の前の男にすべて打ち砕かれた。何一つ、私は彼に敵わなかった。男女差を鑑みても運動神経には天と地ほどの差があったし、成績はひっくり返っても追い抜かすことはできなかった。何より口がうまく、いつだって私は腹の探り合いをしても言い負かされていた。
そして何より悔しいのが、私が彼を好きになってしまったことだ。何一つ敵わなかったのに、もうこれで完全降伏だ。私は彼に、本当に手も足も出なかった。
「そう?」
「変わってないよ、私より先に起きるところも、朝ご飯作りながらコーヒー淹れてくれるところも、あのときと同じじゃない」
大学時代、お互いの家に泊まることは少なくなかった。朝が弱い私はいつも彼が朝ご飯を作る音で起きて、それをわかっている彼はいつも私が起きてくる時間を予測してコーヒーを淹れる。砂糖が少し、ミルクが多めの、今私が飲んでいるのとまったく同じコーヒーを、私は大学時代に何度飲んだことだろう。
「噛みついてくるところも変わってない」
私は言いながら、自身の左肩の辺りを撫でた。
昔から、彼は最中に噛みついてくる癖がある。甘噛みとは言えないほどに強く、しかし痕に残るほど痛いわけでもないので特に文句を言ったりはしなかったけれど。
それを告げると、彼は目を丸くして私を見た。
「……もしかして、無意識?」
意識的にやっているものだとばかり思っていたけれど、今の彼の表情を見るにどうやらそういうわけではないらしい。
「……覚えがない」
右手で頭を抱える彼は、嘘を言っているようには思えない。本当に無意識に、彼は私に歯を立てているのだ。
「へえ」
少しだけ嬉しい気持ちが湧き上がる。何一つ敵わなかった彼に、ようやく勝てた。そんな気がした。
「笑わないでくれ」
「えー?」
照れくさそうに苦い顔をする彼が面白くて、横から彼の顔を覗き見る。こんな彼、付き合っている頃にすら見たことがなかった。
ニヤニヤと彼を見ていると、ふっと彼の指の隙間から見える瞳が鋭くなる。私が怯んだ隙を、彼が見逃すはずもない。
彼の唇が、私のそれを捉える。
「ん……っ」
甘く深い口付けに、思考が奪われる。さっきまでの余裕はどこへやら、ぎゅっと彼の服の裾を掴むだけで精一杯だ。薄く開けた瞼から見えた彼の顔は、先ほどとは打ってかわって余裕の表情だ。
「…ば、か……っ」
キスの後に精一杯の強がりでそう言ってみたけれど、彼は意に介さない。ああ、やっぱり敵わない。悔しいはずなのに、どうしてかこの感覚がひどく心地よくて、それがまた悔しさを煽るのだ。
彼は勝ち誇った表情で私を見る。その表情が鼻につくのだけれど、もう何も返せない。
本当に悔しい。そんな表情すらかっこいいなんて思っている自分がいる。どうして私は、未だに彼への思いを消せないのだろう。あれからもう七年も経っているのに。
「気分はどう?」
「……ムカつく!」
ニヤニヤ笑う彼に対して、そう吐き捨てる。
こんなやり取りも、七年前と同じだ。七年前と何も変わらない。夜と共に過ごした後の朝、彼が自信満々に笑う横で、私は彼の淹れてくれたコーヒー片手に頬を赤く染めて苦い顔をする。このコーヒーを飲み終えるれば、きっと彼が「シャワー浴びて来たら」と言うのだろう。彼の言う通りシャワーを浴びて帰って来たら、今彼が作っているフレンチトーストが出来上がっているはずだ。まるで、七年前にタイムスリップしたかのよう。明日の講義は何だっけ、なんてことを考えてしまいそうだ。
「シャワー浴びて来たら?」
ほら、やっぱり彼から出た言葉は私の予想通りのものだ。
「うん」
空になったマグカップをシンクに置いた。
七年前と変わらないことが多いから、変わったことが余計に際立つ。半ば無意識に、私は口を開いた。
「零」
その名前を呼ぶことを、ずっと避けてきた。だって今の彼は違う名前を名乗っているのだから。
でも、今私の目の前にいるのは間違いなく降谷零だ。私が好きになった、あのときの零がそこにいる。
「コーヒー、ありがとね」
そこまで言うと、零は目を丸くした後、右手で私の頬に触れた。
「……誰もいないし、そう呼んでもいいでしょう?」
「……ああ」
零は低い声で返事をした後、少し屈んでもう一度私にキスをする。さっきと違って、触れるだけの優しいキス。
「」
やっと、零が私の名前を呼んでくれた。喫茶店で再会したときから、ずっと呼んではくれなかった、呼んでほしかった名前を。
どうしようもなく狂おしくて、たまらなくなって、零にぎゅっと抱き付いた。そうすれば、彼はいつだって抱きしめ返してくれる。
今零がどうして安室透と名乗っているのか、本当は何をしているのか、きっと聞いても教えてはくれないだろう。でも、それでもいい。彼の声が、表情が、私を包む両腕が、あのときと同じのままだから。
ムーンリバー
Time To Say Goodbye→
16.06.28
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