虹の彼方に


「運命ってあると思う?」
 大学時代のとある日に、零にそう聞いたことをふと思い出す。
「信じていないな」
 零から返ってきた答えは想像通りのものだった。たとえあったとしても、そんなものに振り回されたくはないと零は言っていた。
 自信を持ったその答えに、ひどく安心したことを覚えている。
 彼は今も、同じ考えを抱いているのだろうか。


 リビングのテレビに、映画のエンドロールが映し出される。サスペンスホラーだったけれど、緊張感もあって面白い作品だった。
「なかなかよかったですね」
 透はリモコンを操作しながら、小さく呟く。
「心理描写も巧みでしたし。マイナーな映画ですけどどこで知ったんですか?」
「職場に映画好きの人がいてね、よく教えてもらうの」
 DVDをしまいながら、彼の言葉に答える。
 職場の後輩に年に百本近く映画を見る通がいるので、教えてもらってはそれらをレンタルショップで借りてきている。昨日借りてきた三本の映画もすべて彼女の勧めだ。
「へえ……これもですか?」
「そう」
 透が手に取った映画は「赤い糸の伝説」だ。それも彼女のおすすめ。完全なラブロマンス映画と思ってあまり興味が湧かず避けていたけれど、彼女曰く人物描写が緻密で奥深い作品だとのこと。
 それをそのまま透に告げると、彼は小さく笑った。
「そうですか。僕も少し興味が湧いてきましたが今から見るには遅いですね」
「そうだね、二時間ものだし」
「そろそろ寝ますか。もういい時間だ」
 時計は午前零時前を指している。明日も休みとは言え今から二時間の映画を見るのは少しつらい。ほかにすることもないし、寝るのに遅すぎる時間でもない。
 透の言葉に頷いて、私たちは眠る準備を進める。私の部屋のベッドはごく普通のシングルベッドだ。二人で眠るには狭く、透が隣で横になると肌が触れる。
「相変わらず狭いですねえ」
「文句言うなら床で寝てください」
「文句じゃありませんよ」
 触れた肌から、熱が伝わる。
 普段一人で眠ることを寂しいと思ったことはない。むしろ一人の方が気楽だと思っているぐらいだ。けれどこうやって隣で透の体温を感じると、いいようのない安心感に包まれる。灯りを消しても瞼を閉じても、透がそこにいるのだと感じられる。
 まどろみに落ちかけると、透の腕が私の背中に回った。目を開けると、透の顔が近づく。
 そのままもう一度、目を閉じた。



「……、起きてください」
 体を揺すられ眠い目を開けると、そこには支度を整えた透の姿がある。枕元の時計は朝の五時を指している。起きるには早い時間だ。
「どうしたの?」
 半分寝ぼけたまま体を起こし、小さくあくびをする。
「仕事で出るので、一声かけていこうと思って」
 透が朝早くに仕事と言って出るのは珍しいことではないけれど、わざわざ私を起こすのは珍しい。いつもは書き置きをしていくだけなのに。
「そう、いってらっしゃい」
 私は黙ってベッドから下りて、透を見送る準備をする。
 こんな明け方にいきなり起こされて、他の人なら怒っていたかもしれない。けれど、普段は書き置きのみのところをわざわざ起こしたのだから何か理由があるのだろう。
 玄関先で靴を履く透の横で、私はもう一度あくびをする。
「すみません、起こしてしまって」
「別にいいよ」
 透は立ち上がると、躊躇いがちに口を開く。
「これから、忙しくなりそうで」
「探偵業?」
「まあそんなところです」
 肯定しないと言うことは、探偵業ではないのだろう。ポアロのアルバイトのわけもない。きっと本業のことだ。
「しばらくは……会うのも難しいかと」
 なるほど、だから今日はわざわざこんな時間にも関わらず私を起こしたのか。透の行動に納得しつつ、目を伏せた。
 思い出されるのは、七年前のこと。忙しくなった零と会うこともかなわず、連絡も取れなくなったあのときのこと。
 透は立ち上がると、私の頬に触れた。
「連絡はします。電話は……難しいかもしれませんが」
「ん」
「もう、七年前のようなことはしない」
 彼の言葉に、はっと顔を上げる。
「本当?」
「信用できません?」
「前科あるからね」
「それもそうだ」
 透は小さく笑うと、私を抱き寄せる。
「もう七年前のようなことはしません。必ず連絡を入れます。あと」
「あと?」
「浮気もしません」
 透の言葉に、私は目を丸くしてしまう。浮気って、この関係で誰かほかの人と関係を持ったら、それは浮気にあたるのか。私にはわからないけれど、少なくとも透はそう思っているようだ。そのことに少し安心感を覚える。
「したら殴る」
「だからしませんって。そっちこそ浮気しないでくださいよ」
「しないわよ」
 透の胸に顔を寄せて、目を閉じる。温かい。
 浮気なんてするはずもない。私には昔からこの人だけなのだ。心の一番奥深くを抉られるのは、この人だけ。
 透の唇が、私に触れる。体を離すと、私の頬に触れながら小さく口を開いた。
「行ってきます」
 私は震える唇をどうにか開けて、精一杯の思いで言葉を紡ぐ。
「行ってらっしゃい」
 パタンと音を立ててドアが閉まる。彼の姿は見えなくなった。



 それから二ヶ月。透の言葉通り、透とは会っていない。
 今まで週に一度、もしくは二週の一度のペースで会っていたから少しばかり胸に穴が開いたようだ。とは言え、大人の二ヶ月は短いものでそれほど寂しいとも思わない。
 先日たまたま仕事でポアロの前を通りかかった際、ロングヘアーの店員さんに透のことを聞いたけれど、「安室さん、突然辞めちゃったんです」と言っていた。
 透からは週に一度ほどのペースでメールが来た。「元気にしてますが」「そっちはどうですか」「ちゃんとご飯食べてますか」、そんなメールが多いけれど、母親じゃないんだからと笑ってしまう。思い起こしてみれば学生時代から彼のメールはシンプルで色気のないものがほとんどだったから、これが彼にとっては自然なのだろう。私もあまり派手なメールをするタイプではないから、そのぐらいがちょうどよかった。
 「元気だよ」「ちょっと仕事が忙しくなってきた」「そっちこそ食べてる?」と返しても、返事がすぐには来ない。ただ、遅くなっても必ずメールは返ってきた。それが嬉しかった。

 最後に会った日から、三ヶ月。少し遅めに起きた日曜日、ベッドから下りて朝の支度を始める。朝ご飯はなににしよう、いや今だと早めのお昼ご飯になってしまうだろうかなんて考える。そういえば携帯をベッドの上に置きっぱなしだった。小さなあくびをひとつして寝室に向かう。枕元の携帯はメールの着信を示すランプが光っている。ベッドに座って携帯を操作する。メールの送り主は透だ。この間の返事かなと思いながらメールを開いて、文面に目を丸くする。
「電話しても平気ですか」
 慌てて受信時間を確認する。今から一時間半前、私が眠っているときだ。振動に気づかないほど熟睡していたのだろうか。
 少し悩んで、「いいよ」と返した。こちらからかけようかとも思ったけれど、一時間半も過ぎれば透の予定が合わないかもしれない。こう返しておけば、あちらが電話をかけられるときにかけてくるだろう。幸い今日はなにも予定がない。のんびり待って、もし電話がかかってこなければタイミングが合わなかっただけだ。また機会もあるだろうと思えばいい。
 携帯を机に置いて昼食の支度を進める。自分のためだけに料理をするのは面倒だけれど、最近インスタントに頼ってばかりだったから今日は何か作らないと。
 返事を送って十分ほどたった頃、机の上に置いた携帯が震えた。タオルで手を拭いて携帯を取る。着信の主はやはり透だ。
「もしもし」
「ああ、すみません突然。ちょっと時間があいたので。お久しぶりです」
「久しぶり」
 電話越しに聞こえる透の声には疲れが滲んでいる。
「そっちは今昼ですか」
「そっちって……今どこにいるの?」
「アメリカの方です」
「は……」
 透の答えに一瞬驚いた後、納得する。しばらく会うのは難しいと言ったのは忙しいという時間的な制約だけでなく物理的な距離の話でもあったのか。
「え、ずっとそっちにいるの?」
「いや、いろいろ……先週までは西の方に。また少ししたらここを離れますし」
 透は自分の居場所の明言を避ける言い方をする。あくまでアメリカのほう、西のほう。時期も濁しているし、きっとそれは言えないことなのだろう。
「じゃあしばらく帰ってこれないんだ」
「そう……ですね。すみません」
「いいよそんなの。それよりそっちは夜なの?」
「ええ。星が綺麗ですよ」
 私もベランダから空を見る。先ほどまで雨が降っていた空は晴れ渡り、星が見えるはずもない。
「いいなあ」
「そっちは見えませんか」
「昼間だってば」
「目を瞑っても見えませんか」
 透の言葉に目を見開く。一瞬携帯から耳を離して、画面の名前を確認してしまった。
「……そんなロマンチックなこと言うタイプだったっけ?」
「はは、見えませんよねえ」
 軽く笑う透の声は明るい。いつもの透と違う雰囲気に少し戸惑いを覚える。
「どうしたの、ずいぶん明るいけど」
「そうですか? ……そうですね。ちょっと気分が高揚しているかもしれません」
「なにかあったの?」
「別にそんな、たいそうなことじゃありませんよ」
「そう? ちゃんと寝てるの?」
「まあ、それなりに」
 透がそういう答えをするときは寝ていないときだ。相変わらず無理をしているようだけれど、どうか体には気をつけてほしい。
「無理しないで、ちゃんと寝なさいよ」
「気をつけます。倒れるわけにはいきませんから」
 携帯から聞こえる透の声は堅い。なにか、強い決意を感じさせるような声だ。その声に私は一瞬怯んでしまう。
「あまり待たせるわけにもいきませんし」
 次に聞こえた言葉は、驚くほど優しい声だった。私の心も一緒に絆される。
「そうね。あんまり待たせられると浮気するかもよ」
「……しないって言ってたじゃないですか」
「あはは、冗談よ」
 透の拗ねた声に思わず笑いがこぼれる。なんだか、懐かしい空気だ。大学時代を思い出す。
「ああ、すみません。そろそろ切ります」
「あ、そう?」
「またメールします。時間ができたら電話も」
「ん。またね」
 少し名残惜しさを感じながら、電話を切った。暗くなった携帯の画面を見てから、空を見上げた。そこには虹が架かっていた。



 あれから、透と電話することはなかった。どうやら忙しさに拍車がかかっているらしく、メールの返事もまばらになっていった。
 七年前のことが心を過ぎるけれど、「もう七年前のようなことはしない」という透の言葉を信じていた。その言葉を信じたかった。
 その証拠に、まばらでもメールはきちんと返ってきた。「連絡できなくて悪い」なんて文言がほとんどだったけれど、それでも嬉しかった。

 最後に会った日から、半年がたった。最初の三ヶ月は早かったけれど、それからの三ヶ月はやたらと長かった。さすがに半年という月日は、重い。
 今日も透から連絡は来なかった。それも仕方ない。私には待つことしかできないのだから。
 唯一の連絡手段である携帯を枕元に置いて、ベッドに入った。目を瞑れば、すぐに眠りに落ちていった。

「んん……?」
 枕元の携帯の振動で、意識が眠りから引き戻される。もうアラームをかけた時間だろうか。眠いけれど、起きなくては。目を瞑ったまま携帯を手に取るけれど、振動がアラームのそれではない。不思議に思いながら目を開けて、携帯の画面を見て目を丸くする。
 画面に表示されていたのは、「安室透」の文字だった。携帯は彼からの着信を示すとともに、午前三時という時刻も表示している。
 こんな時間に電話? 今までほとんど連絡のなかった透が? はっきりと覚醒した頭に多くの疑問が過ぎりつつも、着信が切れる前に電話を取った。
「も、もしもし」
「……」
「もしもし? 透?」
 呼びかけても、透の声は聞こえない。電話口からは小さな雑音が響くのみだ。
「もしもし、え、大丈夫?」
 深夜の電話、聞こえない声。もしや透に何かあったのではと恐怖が私を襲う。
「もしもし、透?」
「……?」
 ようやく携帯から透の声が聞こえる。透の声はやたら気が抜けていて、緊急事態というわけではなさそうだ。
「どうしたの、こんな時間に。なにかあったの?」
「え、? なのか?」
「……? 私だけど」
 透から電話をしてきたというのに、なぜか彼は疑問系で私の名前を呼ぶ。もしかして。
「寝ぼけてる?」
「……悪い。そうみたいだ」
 やはり寝ぼけて電話してきたのか。ふつうなら怒るところだろうけれど、久々に透の声が聞けたからよしとしよう。私もだいぶ甘い。
「悪い。休憩する前に携帯開いたら、電話かけてたみたいだ」
「いいよ別に、明日休みだし……久々に、声も聞けたし」
「……ああ、俺も」
 小さく呟いた声に、透の同意が返ってきたことが嬉しかった。
 透は休もうとしていたようだし、本当は今すぐにでも電話を切った方がいいのだろう。でも、できることなら切りたくない。少しだけ、ほんの少しだけ、会話を続けてもいいだろうか。
「……今、どの辺にいるの?」
「少し前に日本に帰ってきた。国内も飛び回ってたけど、昨日から東京だ」
「え、そうだったの?」
 今も海外にいるかと思って聞いたら、まさかの東京。しかも今までと違って濁さず明確に場所を告げている。何か情勢に変化でもあったのだろうか。
「ああ、もう少し落ち着いたら連絡しようと思って」
「まだバタバタしてるの?」
「ああ……でも、あと少し」
 あと少しなんだ、と透は絞り出すような声でそう言った。「そう」と答えると、少しの間沈黙が流れる。きっと、もう電話を切った方がいいのだろう。
「……
 そろそろ切るねと言おうとしたら、透の低い声が耳に届いた。
「今から、そっちに行ってもいいか」
「え!?」
 透から出た意外すぎる言葉に、思わず大声を出してしまう。今は午前三時、私は明日休みだけれど透はそうではなさそうだし、むしろ休もうとしていたのではないか。
「難しい?」
「いや、私は大丈夫だけど……」
「車飛ばせば三十分ぐらいで着く」
「え、休もうとしてたんでしょ? 大丈夫なの?」
「ああ、会いたい」
 ストレートな言葉に、心臓が大きく跳ねる。会いたいなんて、そんなの私だって。
「今から行く。待っててくれ」
 なにも言えないでいると、透は強い口調で言い放って電話を切った。嘘でしょと思うけれど、透の声は真剣だった。彼は必ずここに来る。
 慌ててベッドから出て透を迎える支度をした。三十分じゃ大したことはできないけれど、なにもしないよりいいだろう。

 電話を切って三十分、部屋のインターホンが鳴った。この時間の来客などありえない。すっかり覚めた目でカメラを覗いて鍵を開けた。
 扉を開ければ、そこには透がいる。
「透……」
 顔を見るのは半年ぶりだ。どうしようもなく胸が高鳴る。心が弾む。
 もう一度名前を呼ぼうと手を伸ばす。透はその手をつかんで、私を抱き寄せる。
「会いたかった」
 絞り出すような透の声に、涙が滲む。私だって会いたかった。会いたかったのは、私だけではないんだ。
「……私も」
 ぎゅっと透の腕をつかむ。温かい気持ち包まれる。
 私はこんなに情熱的な人間だっただろうか。会えたことが、抱きしめられたことが嬉しくてたまらない。心の底から、彼に会いたかった。
 力の限り抱きしめ返すと、透の顔が近づく。私はゆっくり目を閉じた。



 次の日、目を覚ませばもう昼前だった。隣で眠っていた透はいない。昨日の夜の出来事は私の夢かと思ったけれど、机の上にある書き置きで夢でないことを知る。
「あと少し待っててください、か……」
 綺麗な文字で書かれた文を読む。あと少しとはどのぐらいだろうか。待つのはつらい。いつまでとも言わず、なにをしているかも言わずただ待たせるなんて、浮気でもしてやろうかと言いたくなる。
 言いたくなるけれど、言えるはずもない。昨日彼の声を聞いて、彼に触れて、やはり私には彼しかいないのだと強く感じてしまった。
 次に会うのはいつだろうか。さっき会ったばかりだというのに、会いたくて仕方ない。胸の奥が、じわりと痛む。




 透に最後に会った日から一ヶ月がたった。その間に彼から来たメールは二通だけ。電話はしていないけれど、どうやら東京周辺にはいるようだ。
 あと少しはどれくらい? そう聞こうとして、やめた。きっともうすぐ連絡が来るだろう。そう信じるしかないのだから。

 仕事を終えた週末、外で夕飯を済ませ駅までの道を歩く。今から電車に乗ったら家に着くのは九時ぐらいだろうか。もう一度時間を確認しようと鞄から携帯を取り出す。するとその瞬間、携帯が震え出す。着信の主は、透だ。
「もしもし」
、今大丈夫か?」
 透の声を聞いて、ふと心が緩む。我ながらわかりやすい。心なしか透の声も明るい。大丈夫と答えると、矢継ぎ早に透は次の句を唱える。
「今どこにいる?」
「杯戸駅前だけど」
「じゃあ迎えに行く」
 え、と間の抜けた声を出すと、透は「そこなら二十分もかからない」と付け加えてくる。驚いたのはそこに対してではない。「今大丈夫か」というのは電話の時間が取れるかということではなく、会える状態かということだったのか。
「駅前の大通りの……ファミレスの前にいてくれ。車で拾う」
「あ、うん、わかった」
 とはいえ、私も用事があるわけではない。唯一の気がかりはただの仕事帰りの様相で会うための準備を整えていないことだけれど、透は私の返事など聞く様子ではない。二十分弱あれば駅のトイレで化粧直しをして髪型を整えるぐらいはできるだろう。
 透の会うのは一ヶ月ぶりか。それほど離れていたわけではないのに、やはり心が弾む。胸が高鳴る。

 二十分もたたない内に、透は本当に駅前に来た。今までと同じ白い車、しかし今までと違い彼はスーツに身を包んでいる。
「久しぶり……でもないか」
「そうね」
 会話をしながら、助手席に乗り込む。隣で透の横顔を見つめると、小さな違和感を覚える。半年前に電話したときから思っていたけれど、透の待とう雰囲気がポアロで再会したときのそれではない。大学時代の彼に近い。話し方も、声の温度も。
 一ヶ月前は割に情熱的な再会をしたけれど、今回は淡泊だ。一ヶ月ぶりとなればそんなものか。
 ぼんやり考えながら窓の外を見ていると、いつも向かう私の部屋とは違う方角へ進んでいることに気づく。
「どこ向かってるの?」
「俺の部屋」
 さらりとした透の答えに、目を丸くして返してしまう。
 透と七年ぶりに再会してから、透の部屋に行ったことはない。部屋がどこにあるのかも聞いていない。自分の家の話をしようともしなかった彼が突然部屋に連れて行こうとするとは、仕事の方が一段落したのだろうか。
 三十分ほど走ったところで透は車を止めた。ずいぶんと綺麗なマンションだ。家賃もそれなりにしそうだと、余計なことを考えてしまう。
 「こっちだ」という透について行き、とある部屋の前に着く。表札は「降谷」になっていた。
 部屋の中に入ると、綺麗に整理されている。というより、綺麗すぎて生活感があまり感じられない。本当にここが透の、零の部屋なのか。
「適当に座って」
 指示通り、部屋の中央のソファに座った。柔らかくどこまでも沈みそうなクッションだ。
 透からコーヒーを一杯受け取って、口をつける。ミルクと砂糖の入った私好みのコーヒーだ。
「なにから話そうか」
 透は指をいじりながら、うつむいて口を開く。
「……仕事は落ち着いたの?」
 言いにくそうにする透を促すよう、私から質問をひとつ投げかける。すると彼はすぐに「ああ」と即答した。
「……俺の本当の仕事、わかってるんだろう?」
「警察官でしょう」
 透の質問に即答すると、彼は「ああ」と高い声を出す。
「だからまあ……仕事の詳細な内容は言えない」
「だろうね」
「ただ……安室透という名前で探偵やアルバイトをしていたのは、仕事の一環です。だた、それももう全部終わった」
 透は目を閉じる。もう一度開いたときに見えた青い瞳が、昔の彼だった。
 降谷零が、そこにいる。
「……零」
 思わず口から彼の名前が零れ出た。今私の隣にいるのは、間違いなく降谷零、昔の彼なのだ。
 私の頬に零の手が触れる。冷たい指先に目を細めた。
「これだけ待たせたことも、それでもなにも話せないことも、悪いと思ってる」
 零は小さく、真剣な声で言葉を紡ぐ。
「……七年前から、ずっと言いたかったことがある」
 零の目を真っ直ぐ見て、彼の言葉を待つ。
「結婚しよう」
 零の口から出た言葉は、まったく予想していないものだった。虚を突かれた言葉に、私は目を丸くする。
「は……」
「なんだよその色気のない声は」
「いや、だって」
 だって本当に予想外だったのだ。七年前のことと言うから謝りたいとか、そういう話かと思っていた。
 結婚? 私と零が? ぐるぐると頭を巡らせて、ようやく零の言葉の意味を理解する。私は今、プロポーズされているのだ。
 その事実に思い至って、目の奥から涙があふれ出す。一度拭っても、止まらない。
「警察学校を卒業したら言おうと思ってた。でも言えなかった。ずっと言おうと思ってたんだ」
 七年前のことを思い出す。零が警察学校に入ってからは会うことはなく電話だけをする日々だった。
 零はいつからそれを言おうと思っていたのだろう。いつ言えないと思ってしまったのだろう。
「約束したものも、渡せなかった。でも今なら渡せる」
 零はそう言うと、淡いピンクの小箱を私の手に持たせる。私はふるえる指で、そっとその箱を開けた。そこにあるのは、シンプルに光る銀色の指輪だ。
「……約束なんて、してたっけ」
 涙で掠れる言葉に、零はむっとした声で返す。
「しただろ。心配ばっかりかけてる詫びに何かプレゼントするって」
 心配のお詫び? いったいいつの話だろう。混乱している頭で必死に考えを巡らせて記憶を蘇らせる。そうだ、零が警察学校に入って会えなくなったとき、そんな話をしたはずだ。あんな小さな約束を覚えていて、今になって律儀に叶えてくれたのか。
「……で、返事は?」
 零の手を握り返す。私の答えは、七年前から決まっている。
「イエス以外、あるわけないでしょう」
 それ以外の答えを返せるはずがない。返事を告げると目の前がまた滲んだ。
「ずっと待たせて悪かった」
 零は私を抱き寄せると、小さな声で呟いた。本当に、待たせてくれた。もう三十になってしまうじゃないか。
 目を瞑ると、瞼の裏に今までの思い出が浮かぶ。
 ああ、本当に、夢みたいだ。





 警察官との結婚は面倒が多く、身辺調査なるものまであるらしい。噂には聞いていたけれど、今の時代に本当にあるとは。
 調査は特に問題なかったらしく、私と零は先日婚姻届を出した。家も零の部屋に引っ越した。あとから聞いた話によると、安室透として過ごしていたときはほとんどこの部屋には帰らなかったそうだ。今はこの部屋もだいぶ生活感に満ちている。
 零の言葉通り、ひとまず彼の仕事は落ち着いているようだ。家にもそれなりの時間に帰ってくる。今日もきちんと家に帰ってきている。

「零ー、明日だけどさ」
 今日は私が食事当番だ。夕飯のシチューを作りながら明日の予定を確かめようとカウンターキッチンから呼びかけるけれど、ソファに座る零から返事はない。首を傾げつつ零の元まで行くと、ソファにもたれて寝息を立てていた。
「珍しい」
 最近の零はよく寝顔を見せるようになった。安室透として過ごしていた頃は私に寝顔を見せたのはたったの一度だったのに。きっとそれだけ気を張った生活をしていたのだろう。
 零からあのときしていた仕事の詳しい内容は聞いていない。きっと一生聞くことはないだろう。ただ、危険な仕事をしていたのだろうということだけはわかる。
 零の隣に座る。緩んだ寝顔を見せる零が新鮮で、じっと見つめてしまう。すると、零の瞼が小さく動いた。
「あ、起きた?」
「……寝てたのか」
 零は頭を押さえながら起き上がる。まだ少し寝ぼけた様子だ。
「よく寝るようになったね」
「ああ……」
「いいことじゃない。もう危ないことは終わったんでしょう?」
 背もたれに体を預けて零に言うと、零は瞳を真剣なものに変える。
「……いや。きっと一生、変わらない」
 零は低い声で呟いた。その言葉を聞いて、いつかの零の台詞を思い出す。
「地獄まで付き合ってもらうって言ってたもんね」
 笑って言うと、零に抱き寄せられた。耳元に、「ああ」という低い声が響いた。小さな静けさを味わって、私は先ほど呼びかけた本題に入る。
「……そうだ。ねえ、明日だけど」
「水族館行くんだろ。覚えてる」
「時間も変えなくて平気? 寝てたし疲れてるんじゃない」
「問題ない」
 明日の予定を確認して、夕飯の続きを作ろうと立ち上がる。すると、零が私の手を弱い力でつかんだ。
「どうしたの?」
「……いや」
 零は何度か口を開いては言葉を発さずに閉じることを繰り返す。零が言いよどむのは珍しい。私は黙って零の言葉を待った。
「……幸せだと、思っただけだ」
 柄じゃない、と付け加えた零の言葉に、胸の奥が甘く痛んだ。
 零が幸せだと言うなんて、きっとこの先あるだろうか。今の零の声を、深く胸に刻みつけた。
 私も、今、幸せだと思うよ。








虹の彼方に
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17.02.24


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