零と籍を入れて、今日で一年になる。一年前のあの晴れた日に、ふたりで手をつないで婚姻届を出しに行った。あの青い空を、手の温かさを、私はまだ鮮明に覚えている。
さて、初めての結婚記念日にあたる今日、私はひとり自宅で遅めの夕食をとっている。自分で作ったパスタをフォークでくるくると巻きながら壁のカレンダーを見た。
「悪い、多分明日は帰れない」
昨日、零から疲れた声で電話があった。予想通りの言葉に私は「無理しないでね」と返した。
警察という職業上、零の仕事は前触れなく忙しくなることが多い。落ち着いていたかと思えば突然一週間も家に帰らなかったり、帰っても着替えだけ持ってまた職場に戻ってしまったり。今回もそう。三日前の休みの日に家でふたりで映画を見ていたとき、零の携帯が鳴って彼は「呼び出しだ」と言って即座にスーツに着替えて仕事に行った。それからこの部屋に一度帰ってきたけれど、着替えを取りに来ただけ。この調子では結婚記念日は帰れないだろうと踏んでいたので、昨日の零の連絡に驚きはしなかった。元より記念日に強いこだわりがあるわけではない。まったく興味がないと言えば嘘になるけれど、この日をひとりで過ごしたって構わないぐらいのものだ。
少し前に零から電話があった。「帰れなくて悪い、いつもありがとう」と。ほんの短い電話は、きっと少しの暇を見つけてかけてきてくれたものだろう。その気遣いが嬉しかった。
夕食を終え、一通りの家事を終える。お風呂から上がって髪を乾かせばあっという間に夜更けだ。カチ、カチと時計の秒針が動いて、零時を指した。今日という日が、終わる。
一度携帯を操作してベッドに入った。明日も仕事、早く寝なければ。
零はいつ、帰ってくるのだろう。
次の日も零が帰ってくることはなく、結局零から「今から帰る」と連絡があったのは結婚記念日の二日後の夜だった。その日は私も残業で、連絡を受けたのは職場を出る直前。慌てて電車に飛び乗った。
部屋に着くとすでに零は帰っていた。零の姿を見て、ほっと息を吐く。まともに顔を合わせるのは一週間ぶりだ。
今帰ってきたのは私のほうなのに、零の顔を見て思わず「おかえり」と言ってしまった。零は「ああ、ただいま」と返してくれた。
「もう落ち着いたの?」
「少しは。休むのはしばらく難しいだろうけど明日から帰れはすると思う」
零も帰ってきたばかりのようで、まだスーツ姿のままソファに腰掛けている。帰っていない間はあまり眠っていないのだろう。目の下にはうっすらクマも見える。あまり態度に出さない零から珍しく疲労の色が見える。
大丈夫? と聞きながら、隣に座って零の顔を覗き込んだ。零は答えずに私の目をじっと見た後、私の背中に腕を回して抱き寄せた。
「……疲れた」
「お疲れさま」
素直な言葉を聞いて、よしよしと零の背中を撫でた。大きな背中が少しばかり弱々しい。
「……悪かった」
ぽつりと呟いた零の言葉に、思わず首を傾げる。
「なにが?」
「結婚記念日。少しでも帰れればよかった」
「ああ、別にいいよ。そういうのあんまり気にしてないから」
まったく気にしていないと言えば嘘になるけれど、お互い大人なのだから、節目の日に仕事が入ることだってあるだろう。それに何より隠さないほど疲労を溜めた零に対して責める気持ちになれるはずもない。
「それよりあんまり無理しないでね。こういう仕事だから仕方ないんだろうけど、このままじゃそのうち体壊すよ」
「ああ……」
零は私を抱きしめたまま、ぼんやりと言葉にならない返事をする。私の髪を一度撫でると、「渡したいものがある」と言ってテーブルの上の紙袋を手に取った。結婚記念日の贈り物だろう。渡されたのはブルーグレーの箱に入ったネックレスだ。
「ありがと」
揺れるペンダントトップの小さな宝石は、角度を変えるたびに光を反射して輝きの色を変えている。思わず「綺麗」と私の口からこぼれていた。零は昔からこういった類のセンスがいいのだ。ありきたりではないけれど美しいデザイン、そして私好みのもの。一体どこで見つけてくるのだろう。
手に取ってきらきらと輝くネックレスを見つめていると、ひょいと零に奪われた。ちょいちょいと手招きされるので少し前屈みになると、零の手が私の首の後ろに回る。触れる指がくすぐったい。
「ああ、やっぱり似合ってる」
零は淀みない動作でネックレスをつけてそう呟いた。声色に自信が滲み出ているところが零らしい。
「ありがと」
首元に飾られたネックレスに指で触れて、自然と頬が緩む。
記念日にさほど興味があるわけではないけれど、こうやって贈り物をもらって一年たったのだと思うと、じんわりと温かさが心の内に広がっていく。
零は仄かな笑みを浮かべて、私の唇にキスを落とす。
「愛してる」
囁かれた言葉に、胸がきつく痛んだ。甘い痛みがじわりじわりと全身に滲んでいって、視界が微かに潤む。
零はあまり好きだとか愛しているとか、そういった類の言葉は言わない。それでも別によかった。小さな言動や態度から、愛されている自覚はあったから。それでも実際に言葉にされると心の奥が締めつけられる。
幸せだと、心から思える。そう、幸せだ。零といると自然と頬が緩む。温かく凪いだ気持ちに包まれる。この感情を、私は幸せという言葉以外で形容できない。
「私も愛してる」
言葉が自然と溢れ出る。零のことが好きだと思う。温かな感情が全身に広がっていく。
「私、そんな大したもの用意してないんだけど」
「俺のは詫びも兼ねてるから」
「詫び?」
「いつも本当に悪いと思ってる」
零はまっすぐ私を見据える。今までの穏やかな眼差しと違い真剣で、でも瞳は少しばかり揺れている。
「一昨日みたいに大事な日に帰れないこともある。いや、一昨日だけじゃなく、こんな仕事だから家に帰れないことも多いし、寂しい思いをさせたり心配かけたり、そんなことばっかりだ」
「別にそれは……」
「……ときどき、
が寂しそうな顔で眠っているのも知ってる」
零の言葉に、私は少しばかり下を向いた。
時折、二人分のベッドで一人眠ることを寂しいと感じることはあるし、何日も帰らず仕事ばかり零の体が心配になることなんてしょっちゅうだ。
「そんな思いばかりさせて本当に悪いと思ってる。心苦しくなることもある。でも」
零は私の左手に柔らかく触れる。指をなぞる仕草に、私は目を細めた。
「それでも俺は、
と結婚して幸せだと思ってる」
普段聞けないような零の言葉が、ひとつひとつ胸の中に沁みていく。温かな感情がじわりと滲んで目が潤む。
零は私の滲んだ涙を指で拭う。まるで壊れ物を扱うかのような柔らかさに、クリアになったはずの視界が再び歪む。
記念日というのはやはり大切なのだろう。いつもならば言わないようなことも伝えられる。伝えようと思える。
私も零をまっすぐ見て、想いを言葉にして紡いでいく。
「寂しいと思うことは、あるよ」
ひとりには慣れている方だとは思っている。それでも、零と一緒に住んでいるはずのこの家にたったひとりでいると、心が張り裂けそうになるときがある。
「……本当のこと言うとね、寂しくて泣いたことはある。心配だってしょっちゅうしてる。でも、仕事を放り出して私のところに来るような人なら、私はきっと零のことを好きになっていなかった。結婚なんてしなかった。多分きっとこれからも、零のことで苦しくなることはたくさんあると思う。それでも私も、零と結婚してよかったって思ってる。だってこういうときに、幸せだって思うから」
同じ家に零がいる。この家に、零が帰ってくる。私がこの家に帰ったときに、零がいる。日常の小さなことで結婚してよかったと感じる。今日みたいな日には、幸せだと思う。
零の手に触れると、強く握り返される。零はもう片方の手で私の頬に触れて、唇にキスを落とす。
「
を悲しませないなんて約束はできない。きっと今までみたいに、これからもたくさん泣かせる。それでも俺は、
を離すつもりはない」
零の指が私の頬をなぞっていく。大きな手のひらが、私の首筋を包んだ。
「
をこんなに幸せにできるのは、俺だけだと思ってる」
それはいつかも聞いた魔法の言葉。ともすれば自信過剰で鼻につくようなセリフなのに、どうしようもなく胸に刺さる。それはきっと、零の言葉が本当のことだから。
「すごい自信」
「当たってるだろ」
「当たってるよ」
かろうじて零れた言葉は震えていたように思う。
たった一言で、こんなに感情を揺さぶられる相手を零以外知らない。幸せで涙があふれる相手はほかにいない。
「零のことで泣くことはたくさんあるよ。でも、寂しいって泣かせることができるのは零だけよ。私を……私を幸せにしてくれるのも、泣かせることができるのも、零だけ」
私の感情を強く揺さぶるのは零だけ。私の心の一番奥にはずっと、零しかいない。大学生のときから、ずっと。
「知ってる」
零に抱き寄せられてそのまま身を任せる。背中に回った腕の温度が心地いい。
触れるだけのキスをひとつ、ふたつ。短いキスを繰り返す。夢のようで夢ではない温かな時間。
籍を入れたあの日のことを、私はきっと忘れない。あの青い空も、つないだ手の温かさも。そして今日のキスの感触も、胸を走る甘い痛みも、きっとずっと、永遠に忘れない。
星を見つけた日
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21.06.18