零は写真を撮らない。たまに旅行をしても撮るのは風景写真だけ。私とのツーショットなんて以ての外だ。いつもそう。警察官だからと零は言うけれどそれにしたって気にしすぎでは。そう思うこともあるけれど、零は交番のお巡りさんではないのだ。零から詳しい仕事内容は聞いていないけれど、一般的に想像する警察官ではなく、特殊な立ち位置なことは明らかだ。
仕方ないことはわかっている。それでも少し、ほんの少し寂しくなることがある。写真が撮れないことが寂しいわけではない。いつかこの先零が死んだら、零がここにいた証がどこにも見つからないような、そんな気がすることが寂しくて、怖い。
残業から帰ると、部屋の電気が点いていた。零は先に帰っているようだ。
「お帰り」
「ただいま、早かったんだね」
「ああ、思ったより早く片づいた」
零からは遅くなると連絡があったから、夕飯を済ませて帰っても私の方が早いだろうと思っていた。とは言え零もスーツ姿のままだから帰ったばかりのようだけれど。
「夕飯食べた?」
「ああ」
「私も食べてきた」
零にちょいちょいと手招きをされたので、鞄を肩から外してソファに座る零に近づく。零は少し見上げて、私は少し屈んで、私たちはキスをした。
挨拶のようなほんの軽いキスの後、零はすんすんと私の髪のあたりに鼻を近づける。少し訝しげな表情で口を開いた。
「喫煙席でも座ったのか?」
「え」
零の言葉に慌てて自分の袖のあたりを嗅いでみる。夕飯を食べたお店は分煙制とは言え確かに仕切りのないお店だった。喫煙席からそれなりに離れた禁煙席に座ったのだけれど。それでも煙草臭いだろうか。
「臭う?」
「すこし」
「うーん……」
そんなに臭うのか。うーん、少しばかりショックだ。
「ああ、悪い。別に気になるほどじゃない。ほとんどの奴は気づかないだろ」
「そう? 零って本当細かいとこ気づくよね」
昔から零はなにかと小さな違いを発見しては指摘してきた。正直細かすぎて怖いと思ったこともある。警察としては必要なスキルなんだろうけれど。ま、その分髪型変えたことや新しい服にもマメに反応があるのは嬉しいところだ。
「そういえば、零って煙草吸わないんだね」
「なんだよ突然」
「警察官って吸ってる人多いイメージだったから」
言いながら、私は零の隣に座った。
それはあくまでテレビや映画のイメージだ。実際は嫌煙化が進む時代だし、吸っていない人も多いだろうと言うのはわかっている。ただ零が警察学校に入るときや正式に警察官になったとき、もしかしたら煙草吸い始めているかもしれないなあ、なんて思ったのをふと思い出した。
「吸ってる奴も多いけど、俺は吸わない。匂いがつくと痕跡が残って厄介だ」
あ、まただ。また零はこういうことを言う。”痕跡が残って厄介”なんて、普通の人では出てこない言葉だろう。でも零はさも当然のようにそんな言葉を吐くのだ。
結婚する少し前は、いつか零がいなくなりそう、私の前から消えてどこかに行ってしまいそう、そんな不安がよぎることがあった。籍を入れた今はそんな不安はないけれど、今度は零がいつか、いつかこの先死んだとき、零がこの世にいた証がどこを探してもないのでは。そんなことを考えてしまう。
「どうした?」
暗い表情をしてしまったのだろう。零は心配するような声で言いながら私の顔を覗き込む。
「……あんまりそういうこと言わないで」
ぽつりと小さく呟いた声に、零は不思議そうに首を傾げる。
警察官の殉職なんて、日本でそうそうあることではないのはわかっている。けれど、「そうそうあること」が、零に起こらないとは限らない。
「零が死んだら、何も跡が残らなそうじゃない」
もしものことを想像すればきりがない。零がもし死んだら。それが一番怖いけれど、次に怖いのは死んだ後に何も跡が残らないであろうことだ。
「ずいぶん不吉なこと言うな」
「心配してるの」
「わかってるよ」
ソファに寄りかかると、零は私の髪を撫でる。
いつか零がいなくなったら。その後何も残らなかったら。そんなのは、悲しいじゃないか。
「……跡ならここに残ってる」
零は私の首筋に手を添えると、鎖骨のあたりまでを指先で撫でる。
「……そういう意味でつけてたの?」
「そういうわけじゃないけど」
服で隠れた場所に、零が数日前につけた痕がある。もうほとんど見えなくなっているけれど。
キスマークだけじゃない。零は大学生の頃から噛み癖があった。それはずっと変わらない。一時ポアロで再会してから結婚するまでは顔をしかめるほどに痛いこともあったけれど、最近はそれほど痛いわけではないし、キスマークと同じくこちらも痕などすでに残ってはいない。
「俺の跡は、
に残ってるだろ」
もう見えない痕に触れながら、零は言葉をこぼす。
「……気障なこと言う」
私は唇を尖らせて、零の肩に寄りかかる。心の奥が無性に疼いて、痛んで、苦しくなる。
この痕が、一生消えなければいいのに。心の底からそう思う。
しるし
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21.05.21