カンタータ

 仕事を終え、家で料理をするのが面倒で適当に食事に済ませようと選んだのは職場近くのファミリーレストラン。階段で二階まで上がって中に入ると夕飯時らしく、店内はほぼ満席で明るい声に溢れている。
 運よくあいていた席に案内してもらうと、私のテーブルの前の席に、見知った顔を見つけた。透、と呼びかけようとして、ぐっとその声を飲み込んだ。
 透の前の席には、一人の女性が座っている。年齢は五十代と言ったところだろうか。女性の表情は険しく真剣そのものだ。テーブルの上には書類がいくつか重なっており、それを見ながら話す二人の声は小さく周りの喧騒にかき消されている。
 この状況から言って、おそらく探偵業の打ち合わせだろう。仕事であれば、邪魔をするわけにはいかない。私は黙って案内された席に座った。
 注文を済ませ、持っていた文庫本を開いた。透の席が気にならないわけではないけれど、聞いてどうかなるものでもない。文庫本の物語に意識を集中させた。


 周囲の喧騒を聞きながら食事を終えると、食後の紅茶が運ばれてくきた。前にいる透と依頼者は相変わらず真剣な様子で話を続けている。気にしてはいけないと思いつつ、どうしても視界に入ってくると意識が向いてしまう。
さん?」
 透の方に行きかけた意識を引き戻すかのように、細い女性の声が私を呼んだ。
「先生」
 振り返ると、そこにいたのは大学の卒論指導教授だ。
「久しぶりね、元気だった?」
「はい、先生も」
 教授とは卒業後に一度会っただけで、会うのは五年ぶりになる。彼女も変わらず元気そうで一安心だ。
さん、すっかり綺麗になっちゃって。いいわねえ、若いって」
「やだなあ先生、褒めても何も出ませんよ」
「あらあ、本当なのに」
 くすくすと笑いながら、教授は私の肩を叩く。少し雑談をした後、彼女は家族を待たせてるからと言って、お店の奥の方に消えて行った。透の横も通ったけれど、彼女は透に気付かなかったようだ。透は卒論指導を別の教授から受けていたし、授業も一年時のひとつしか受けていないはず。あまり関わりのない透を彼女が覚えていないのも無理はない。気付かなかったことにほっと息を吐いた。
 私はティーカップにもう一度口を付ける。私たちが話している間に透の方は打合せが終わったようで、二人は書類をしまい席を立った。女性の方は沈んだ表情のまま、透に頭を下げた。
 私のテーブルの方がレジに近い。帰るとき自然と透は私のテーブルの横を通ったけれど、こちらには目もくれない。
 紅茶はすでに飲み切ったけれど、透たちが帰ってすぐは席を立ちにくい。少しの間携帯を弄ってから、私は会計を済ませお店を出た。
 家に帰ったら溜めていたテレビドラマを見ようか。それともレンタルショップに寄って映画でも借りてこようか。明日は休みだから、多少夜更かししても構わない。
 そんなことを考えながら階段を降りると、駐車場前で呼び止められれた。
「遅かったですね」
「透」
「送っていきますよ」
 透はポケットから車のキーを出すと、駐車場の奥へと歩き出す。
 私は一瞬ぽかんと口を開けた後、慌てて透の後をついて行った。
「待ってたの?」
「ええ。せっかくなので」
「ありがと」
 お礼を言いながら、助手席に乗りこむ。いつの間にか、特徴的なこの白い車にも乗り慣れた。
「仕事帰りですか?」
「うん。そっちは探偵業?」
「はい。仕事柄仕方ありませんが、時間が安定しないのはつらいですね」
「お疲れさま」
 そんな会話をしながら、車は進む。赤信号で止まって、少しだけ会話も切れる。
「教授もいましたね、懐かしい」
「ああ、透、先生のこと覚えてたんだ」
「ええ、まあ」
 透はちらりと一瞬こちらに視線をやる。どうしたのと聞く前に、すぐに彼は視線を信号に戻した。
「……したね」
「え?」
 透が何か呟いたけれど、か細く語尾しか聞き取れない。聞き返すと、透は言いにくそうに口を動かす。彼がここまで口ごもるのは珍しい。いつも回りくどい言い方でも言葉自体ははっきりしているというのに。
 首をかしげているうちに、信号が青に変わる。走る車の中で、透は再び口を開いた。
「……綺麗になったって、言われてましたね」
「へ? ああ、うん」
 予想していなかった言葉に、私は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
「嬉しかったですか?」
 これまた予想していなかった返しに、今度は言葉に詰まってしまう。
 透は一体何を考えてこの会話をしているのだろう。いつもはもっと、明確な意思を持って透は言葉を放つのに、今回はまったく意図が見えてこない。だから私は、心のままに返すしかない。
「まあ……お世辞、っていうか挨拶のひとつだろうけど、言われたらやっぱり嬉しいよ」
「そうですよね」
 また信号が赤になる。透は車を停めて、シートに背を預けた。
「……お世辞じゃありませんよ、きっと。僕も思いましたから、ポアロで会ったときに綺麗になったと」
「え……」
 突然の言葉に、頬が熱くなる。
 綺麗だとか、そういう類の言葉は彼からあまり言われたことはない。少なくとも、ポアロで再会してからは「そういうとき」以外は言われた覚えはない。
「ど、どうしたの突然」
「ずっと思ってましたよ、悔しくて言えませんでしたけど」
「悔しいって」
「だって悔しいじゃないですか。僕が隣にいない間にこんなに綺麗になってるなんて」
 透は少しだけ笑って、私を見る。
「誰に綺麗にされたんです?」
 何が悔しいのかと思ったら、何をずっと言い淀んでいたのかと思ったら、そういうことか。
 透の子供のような思考に、思わず笑ってしまった。
「私の努力の成果です」
 笑いながら、きっぱりと言ってみせる。
 私が本当に綺麗になったのだとしたら、それは誰かの影響じゃない。自分の、自分の足で立っていたからだと、そう言いたい。
「ああ、そうですね。はそういう人間だ」
 透は笑って、車を再び発進させる。
「そういうところ、本当に綺麗だと思ってる。昔から」
「ありがと」
 和やかな雰囲気で、車は進んで行く。
 誰かに影響されて綺麗になったりするような人間じゃない自信はある。だけれど、隣にいる人に綺麗だと言われたことはどうしようもなく嬉しくて、胸に甘くて心地いい痛みが走る。
 窓に映る自分の顔を見る。そこに映る顔はだらしなく笑っていて、お世辞にも綺麗と思えなかった。





カンタータ
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16.10.14



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