目を覚ますと、涙が頬に雫れていた。
嫌な夢を見た。零と連絡が取れなくなったときの夢だ。
彼と七年ぶりにポアロで再会した日から、昔の夢をよく見るようになった。初めて会ったときの夢、一緒に勉強をした日常の夢、初めてデートしたときの夢。しかし、別れたときの夢は初めて見た。
なんと嫌な夢だろう。心臓は大きく鼓動を打って、体はひどく重い。息を整るため、額に手の甲を当て息を吐いた。
涙を拭いながら、ベッドを出た。ドアの向こうからはキッチンの音が聞こえてくる。きっと透が朝食の用意をしているのだろう。
簡単に身支度を整えてドアを開けると、爽やかな表情で透が作業をしている。
「おはようございます」
「おはよう」
「コーヒー、できてますよ」
「ありがと」
透からコーヒーを受け取って、彼の隣でマグカップに口を付ける。砂糖が少し、ミルクが多めのコーヒーを飲むと、少しずつ心が落ち着いてくる。
「……どうかしました?」
「え?」
「顔色が悪いですよ」
透はそう言いながら、私の頬のあたりを撫でる。涙を拭うようなその仕草に、胸が痛む。
「……ちょっと嫌な夢を見て。もう大丈夫よ」
笑ってそう言ってみせて、コーヒーを一気に飲みマグカップをシンクに置いた。
「……そうですか? ならいいですが……」「ん。シャワー浴びてくる」
透に背を向け、バスルームに向かう。熱めのシャワーを浴びて、頭をすっきりさせたい。
脱衣所で服を脱ぐと、鏡に自身の裸体が映った。肩と太股のあたりに、昨晩透がつけた噛み跡がくっきりと残っている。
学生時代から彼には噛み癖があった。しかし、ひどく痛いわけでもなく痕もすぐに消える程度のものだったので、特に私から文句を言うことはなかった。だけれど、最近は妙に噛む力が強くなってきている。顔をしかめるほどに痛く、痕もなかなか消えてくれない。これほどまでに強く噛まれたのなら、文句のひとつでも言うべきなのだろう。どうやら透の噛み癖は無意識によるものらしいので、指摘すればなくならなくともきっと弱くはなるだろう。
でも、それを言うのが嫌だった。言ったら嫌われるかもなんて、可愛らしい思いじゃない。ただ、この痕が消えてしまうのが恐い。
ため息を吐いて、バスルームの扉を開けた。まだそこは少し熱を持っていて、透が先ほどまで使っていたことが窺える。勝手知ったる他人の家、透はキッチンだけでなく私の部屋のすべてを熟知している。
その一方で、私は透の部屋を知らない。どこに住んでいるのか、大体の場所すら聞いていない。
もし、もしも、透が本気で私と連絡を断とうとしたら、彼はそれを簡単に実行できる。私からの連絡を無視して、ポアロのバイトを辞めればいい。そうしたら、私は彼に連絡を取ることも、会いに行くこともできない。六年前のように、私は彼に対してなにもできなくなる。
先日透と再会したあの日から、ずっと恐れていることがある。六年前のように、彼が私の前からいなくなってしまうのではないかということだ。なんの痕跡も残さずに、あっさりといなくなってしまいそうな雰囲気を彼は纏っている。私はそれが恐くて仕方ない。
「……やめよう」
そんなことを考えていても仕方ない。嫌な夢を見たせいで、恐怖が先走ってしまっているだけだ。
深呼吸をして、シャワーを浴びた。きっとシャワーを終えたら、透が朝食を用意し終えている頃だろう。
シャワーを終え、服を着てダイニングへと続く扉に手を掛ける。
「透、お待たせ」
キッチンに向かってそう言ったけれど、返事は返って来ない。
「透……?」
キッチンには作り掛けの朝食があるだけで、透の姿はない。トイレにでも行っているのかと思ったけれど、トイレの電気はついていない。慌てて寝室を見てみたけれど、透はいない。
「透!」
嫌な予感が胸をよぎる。今日夢に見た、六年前の出来事が蘇る。
鳴り続けるコール音、返事のないメール。もう、彼に会えないという事実。
胸が大きく鼓動を打つ。額に汗が流れ出す。呼吸が浅くなっていく。恐怖の感情が私の全身を覆い始める。
「?」
両手で胸をぎゅっと押さえていると、後ろから私の名を呼ぶ声が聞こえてくる。慌てて振り向くと、そこにはベランダから出てくる透の姿がある。
「透……」
「すみません、ちょっと電話が掛かってきてしまって。どうかしました?」
心配そうに私を見つめる透に、思わず駆け寄り抱き付いた。
「? どうかしました?」
透の言葉に、私は何も返せない。ただ、震える指で透の背中にしがみつくだけだ。
「……」
私の様子を察したのか、透はただ優しく抱きしめる。背中に回した手で、なだめるように私を撫でる。温かい感触に、少しずつ感情が落ち着いていく
大丈夫、彼はちゃんとここにいる。私を抱きしめてくれている。
「……ごめん、もう大丈夫」
「……そうですか?」
「うん」
透から体を離して、彼の頬に触れた。みっともない姿を見せてしまったけれど、大丈夫。心臓の鼓動は収まって、心は凪いだように静まっている。
「なにか、ありましたか」
それでも透の表情は未だ変わらない。私をまだ心配しているようだ。
「別になにも」
「はなにもなくてこんなに落ち込むような人間じゃないでしょう」
「……嫌な夢を見たって、言ったでしょ?」
「それだけには見えません」
嫌な夢という表現で誤魔化そうとしたけれど、透は引き下がってくれない。
透が本気で追求しようとしたら、私に逃れる術はない。私は躊躇いがちに、ゆっくりと口を開いた。
「……嫌な夢よ。六年前の夢をみたの」
それだけ呟くと、透は表情を歪めた。賢い彼のことだ、すぐにその意味がわかったのだろう。
だから言いたくなかったのだ。きっと透はこういう顔をするだろうと思ったから。
六年前のことはお互い様のはずだ。彼も私に連絡をくれなかったけれど、私も彼に連絡をしなかった。忙しかったのもお互い様。どちらが悪いわけでもない。敢えて言うなら、お互いが同じだけ悪かった。
「……すみません」
「別に謝らなくても」
「いえ、無理に聞き出してすみません」
「……ああ、そっちね。そうね……」
そちらの謝罪ならば、素直に受け取れる。笑って彼の頬に触れた。
「別にいいよ、大丈夫。ほら、ご飯食べよう」
そう言うと、透が突然私を抱きしめる。先ほどのように優しい抱擁ではなく、痛いぐらいの強い力で、しかしその腕はなぜか頼りない。
「透?」
「七年前から、同じ言葉を言わせてばっかりだ」
「え……」
「別にいい、大丈夫って、は何度俺に言った?」
透の言葉で、私の胸は大きく跳ねた。
別にいいよ、大丈夫、気にしないで。彼が警察学校に入ることが決まってから、私は何度その言葉を彼に言っただろう。その言葉雫すと同時に、何度心が涙を流しただろう。
「……それ、は」
「大丈夫って言わせてばっかりで、結局なにもしてやれなかった。渡したかったものも、渡せなかった」
透は言いながら、私の左手の薬指に触れた。六年前までそこにはめていた指輪の感触が、一気に蘇る。
「そんなの別に……」
いいよ、と続けようとして口を噤んだ。また私は彼に同じことを言おうとしている。
「……無理してるわけじゃなくてね、本当に、いいのよ」
できるだけ彼が気にしないよう、私は言葉を選びながら、ゆっくりと話していく。
「私があのとき本当に欲しかったもの、わかっているんでしょう?」
六年前、最後の電話で、我慢ばかりしているお詫びに何かプレゼントしてもらうことを約束した。だけれど、本当はプレゼントなんていらなかった。物が欲しいわけじゃなかった。きっと彼だって、私が本当に欲しかったものを、わかっていたはずだ。
「……」
彼は私の名前を呼んで、優しいキスを一つ落とす。
そう、私はこれが欲しかった。名前を呼んで欲しかった。抱きしめて欲しかった。キスをしてほしかった。
ただひたすらに、会いたかった。
「、ごめん」
「謝らないでってば。本当に平気だから」
「平気じゃないだろ。今だってそんな苦しそうな顔で、何度も同じ言葉を言わせてる」
透の言葉に、私は続きを喉で詰まらせる。
本当に大丈夫だって思っている。透が隣にいるのなら、それだけでいいと。
その一方で、私はいつも恐れている。また彼がどこかに行ってしまうのではないかと。私の前から消えてしまうのではないかと。
そう思えば思うほど、いつも胸の奥がナイフで突き刺されたかのように強く痛む。笑顔を作るのがつらくなる。彼の隣にいるのが恐くなる。
唇を震わせていると、透が小さく口を開いた。
「に無理をさせてるのは知ってる。つらい思いをさせてるのもわかってる」
「私、は……」
「でも、どんなにつらい思いをさせたって、もう離さないって決めたんだ」
透が言葉と同時に私を抱きしめる力を強くする。ぎゅっと強く抱きしめられて、私の目から涙が溢れ出す。
「……本当に?」
震える声で、絞り出すようにそう言った。ほとんど息の混じったようなその声は、きっと聞き取りづらいことだろう。それでも、透は確かに頷いた。
「ああ」
「絶対?」
「ああ」
「嘘吐いたら、殴るわよ」
「それは、恐いな」
「……嘘吐いたら、泣くからね」
「わかってる。それが一番恐い」
「ふふ」
透の返事でいつかのやり取りを思い出して、自然に笑みが雫れる。
私は自然と透に体を預ける。縋りつくわけでもなく、ただ彼に触れたくなった。
透も私を抱きしめ直す。その力は先ほどより弱いのに、優しさに溢れていて力強い。
優しい穏やかな時間は、私たちの間に流れ出す。
嫌な夢を見たけれど、もう大丈夫だ。強がりではなく純粋にそう思う。彼はずっと、私の隣にいてくれる。縋るような声で言った離さないと決めたという言葉が、私の胸に深く残っている。
私たちは、もう一度キスをした。嫌な夢が終わって、今は甘い夢を見ているよう。
どうかこの夢が、永遠に続きますように。目を瞑って、願いを掛けた。
覚めない夢を見させてよ
← カンタータ→
16.08.19
Clap/よければ押してくれると嬉しいです