「今日は帰れても遅くなる」
「何時ぐらい?」
「多分日付またぐ」
「そっか、了解。無理しないでね」
昼間の
とのやり取りの通り、どうにか仕事を一段落させて本庁を出たのは午前二時だった。焦ったところで
はもう眠りについているのはわかっていたが、それでも車を飛ばして家に帰った。家のドアを開けても広がるのは静寂と闇、
はすっかり夢の中だろう。
リビングの電気をつけると、珍しい光景が広がっていた。床には
の鞄が無造作に置かれ、ソファの背もたれには薄手のカーディガン。シンクの中には夕飯で使ったと思われる食器が汚れたまま放置されている。綺麗好きな
らしくもない光景は、
の心情を表しているようだった。
寝室のドアを開け、眠る
を起こさないようベッドに座る。掛け布団を抱きしめるように丸まる
の寝姿はさながら赤ん坊のようだ。その顔には心なしか影が見える。
仕事、仕事、仕事。やっと帰れると思ったらまたトラブルで帰れない日々。組織の潜入が終わり少しは時間に余裕のある生活が送れると思っていたが甘かった。時期によってはあのときより自由になる時間は少ないぐらいだ。
そんな毎日だから、少しは心の安寧が欲しかった。
の頬を指の背で撫でる。ほんの少しでいい、
の顔が見たかった。五時には家を出ないといけないので長くはいられないが、それでも
の顔が見たかった。
「ん……」
が小さく息を漏らして瞼を動かす。しまった、起こしてしまったか。すっと指を引っ込めようとすると、
は薄く目を開け頬を撫でていた俺の指を弱々しい力で掴んだ。
「零……?」
「悪い、起こしたか」
「ん……」
は言葉にならない声を発して再び瞼を閉じる。どうやら完全に覚醒してはいないようだ。このまま眠れるようそっとしておこう、そう思ったそのとき。
「寂しい……」
ぽつりと、
の唇から言葉がこぼれた。同時に閉じられた目からは一筋の涙が流れる。
何を言えばいいかわからない。何をすればいいかわからない。何か言おうとするが、唇が動くだけでうまく言葉が発せない。謝ればいいのか? それとも抱きしめればいいのか。何が正解かわからない。
そうこうしているうちに、
から寝息が聞こえ始める。また完全に寝入ったようだ。
右手を
の手に預けたまま、左手で
の頬に伝う涙を拭う。聞こえるはずもないのに、「悪い」と口からこぼれた。
何日も家に帰れないことはザラで、今回のように約束を反故にすることも少なくない。それでも
は「寂しい」と口にしてはこなかった。それはなにも結婚してからだけの話ではない。警察学校に入って会えない日々が続いたときも、
は「寂しい」なんて言ってはこなかった。「頑張って、無理しないで」、
の口から紡がれる言葉はそんなことばかりだった。
に寂しい思いをさせている、そんなことはわかっていた。それでも実際に
の口から「寂しい」と聞くと、その言葉が重くのしかかる。首を絞められたように息が詰まる。
「……悪い」
再び同じ言葉が口から溢れ出る。その言葉は、もう
には届かない。
*
結局その日は、すぐに家を出た。
に俺が帰ったことを悟られないよう、そっと。
次の日、なんとかまともな時間に仕事を終わらせて本庁を出た。道中
への詫びのケーキを買っている時間を考えると家に着くのは九時過ぎだろうか。
に帰宅時間を連絡しようとして、やめた。結局この間も「帰れると思う」と連絡をした後に仕事が入って帰れなくなったのだ。今日これから仕事に呼び戻されることはないだろうが、可能性は0ではない。
に期待を持たせて裏切るような真似はできる限りしたくない。
「ショートケーキふたつ」
との約束を反故にするたびに
のお気に入りのケーキ屋でお詫びとしてケーキを買っている。すっかり常連になってしまったのがまた虚しい。こんなケーキ程度で
のに対する謝罪になるとは思っていない。それでもなにもしないよりはマシだろう。
マンションの駐車場に車を停めたところで
に電話をかけた。今もう下にいることを告げると、
はひどく驚いた声を出す。
「え、下って駐車場?」
「もうエレベーター乗った」
「えっ」
慌てた様子の
の声を聞いて気が緩む。ああ、ずっと
のこんな声が聞きたかった。「仕方ないよ」「無理しないで」と苦しそうに話す声ではなく、こんな日常の声が聞きたかった。もうエレベーターの到着を待つほんの数秒ももどかしい。
玄関の扉を開けると驚いた顔の
がいる。そんなに俺がこの時間にいることが信じられないのだろうか。いや、当然信じられないだろう。この一ヶ月まともに家に帰っていなかったのだから。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
の表情が驚いた顔から柔らかいものへと変わる。微笑む
の唇にキスを落とした。キスをすれば唇から、抱きしめれば腕から
の温もりが伝わってくる。仕事中から張っていた気が抜けていく。ずっと求めていた穏やかな時間だ。
が俺の持つ紙袋をちらりと見るので、昨日のことを謝罪しつつそれを渡した。受け取った
は中身を覗いてやれやれと言わんばかりに肩を竦める。
「ま、これをもらったら仕方ないかな。ふふ、やった」
語尾を上げ軽い足取りでキッチンへ入る
の横でスーツの上着を脱いだ。家の中を見渡すと、昨夜と違い綺麗に片づいている。
の機嫌も悪くない。安心して笑みをこぼすと、
に「零も今食べるでしょ?」と聞かれたので首を横に振った。もともとふたつとも
の分のつもりだ、と。謝罪の意味を込めて買ったものを俺が食べるのもおかしな話だろう。
「そう……じゃあ紅茶淹れるね」
気をきかせて言ったつもりが、俺の思惑とは反対に
は肩を落とす。紅茶を淹れる
の後ろ姿がいやに小さく見えた。昨夜見た
の涙が頭の中にフラッシュバックする。いても立ってもいられずに思わず腕を伸ばして抱き寄せた。
「どうしたの?」
「……悪い。悪かった、昨日。ごめんな」
「そんなに謝らなくても。別にもういいってば。ケーキもらったし」
はからからと明るい声だ。昨日の夜の、「寂しい」と呟いた絞り出すような声とはまったく違う声色。俺は何度
に「別にいいよ、仕方ないよ」と無理な明るい声で言わせてきたのだろう。
「寂しい思いばかりさせて、悪いと思っている」
俺の言葉に、
は図星だと言わんばかりに小さく肩を震わせた。
「……零」
は俺の腕の中でゆっくり体を俺の方に向けた。下を向いたまま、胸の辺りに触れながらおもむろに言葉を紡ぎ出す。
「約束破られたのも、全然帰ってこないのも怒ってたし、……寂しいとも思ったけど、もういいの」
「……悪い」
「いいってば。ねえ、なんで許したと思ってる? ケーキもらったからじゃないわよ」
の問いかけに言葉を詰まらせる。なぜかって、そもそも俺は許されているのか。もとよりケーキのひとつやふたつで許されているとは思っていない。
は俺の頬を両手で包む。細い指が下の瞼をくすぐった。
「零の顔見たら許しちゃった」
そう話す
の表情は温かな色に彩られている。緩い弧を描く唇は深紅に染まり、頬は淡い紅潮する。決して満面ではない穏やかな笑顔は、心の底から溢れ出たものだと思わせるには十分すぎるほど優しい色だった。
「だって、会いたかったの」
の言葉で、
の表情でようやく理解した。なぜ許されたか? 単純だ。俺がここに帰ってきたからだ。こうやって顔を合わせているからだ。こうやって言葉を交わしているからだ。たったそれだけのこと。
雷に打たれたような衝撃だ。青い鳥の寓話のような、なんて単純な、簡単なことだろう。
「零」
名前を呼ばれて、
の顔をじっと見る。
の深い瞳に俺の姿が映った。きっと俺の瞳にも、同じように俺をまっすぐに見つめる
の姿が映っているのだろう。
「おかえりなさい」
の言葉が、じわりと俺の中に染み入る。胸の中に落ちた言葉は、心臓が鼓動を奏でるたびに温かに全身に広がっていく。
「ああ、ただいま」
の体を抱き寄せると、
も俺の背中に腕を回す。
俺がこの家に帰って
の顔を見て幸せを覚えるように、
も俺の顔を見て心を綻ばせているのだろう。ずっと
を傷つけてばかりだと思ってきた。寂しい思いばかりをさせて、悲しませてばかりだと。一緒になったのは結局俺のエゴなのではと感じることも多々あった。それはきっと本当のことではあるだろうが、それだけではない。ずっと昔に感じた、今では崩れたしまっていた「
を幸せにできるのは俺だけだ」というあの自信は、きっと今でも真実なのだ。帰ってきただけで、顔を見ただけで
の頬をこんなに緩ませることができる男は、俺以外にいないだろう?
ここが俺の帰る場所。ここが
の帰る場所。俺と
の幸せが、生まれる場所だ。
Fly me to the moon/降谷視点
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18.07.15
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