「今日は帰れても遅くなる」
「何時ぐらい?」
「多分日付またぐ」
「そっか、了解。無理しないでね」
零とのやりとりを終えて、携帯を閉じた。
予定のない休日の昼。この二週間仕事が忙しかったから今日はご褒美の日だ。少しお高めのランチを食べて、公開したばかりの映画を見る。その後は気になっていた服とイヤリングを買う。ショッピングに疲れたら目についた喫茶店で甘い紅茶とレアチーズケーキを頬張る。たまにはこんな休日もいいだろう。夕飯はどうしようか。家で作るつもりだったけれどここまできたらちょっといいところで外食しようか。カロリーが気になるところだけれど、こんな贅沢年に何度もしないのだから、今日ぐらいは自分を甘やかしてもいいだろう。確かこの大通りに職場の同僚に聞いたおすすめのお店があったはず。そこに行ってみよう。
カツンと高めのヒールを響かせて喫茶店を出た。真っ先に目に付いたのは、目の前を歩くカップルの姿。ふたりのお互いを見る瞳は温かで、つながれた手からは信頼関係が伝わってくるようだ。
目の前を過ぎ去る見ず知らずのふたりを見て、小さな息が漏れた。
本当は今日、零とふたりで出かける予定だったのだ。
一週間前に零の方から提案してくれた。来週は仕事も落ち着いているだろうからと。結局また仕事でトラブルがあったようで今日の約束はお流れになってしまったのだけれど。
「今度の日曜、前に
が気に入っていると言っていたお店で昼を食べよう。昼の後はこの映画に行きたい。前から気になってたんだ」と。「その後はいつも仕事で帰れない詫びに、服かアクセサリーを買うよ。いつも悪いな」と言ってくれた。零の提案をなぞって自分へのご褒美というかたちで今日という日を過ごしてみたけれど、結局虚しくなるだけだった。
「……帰ろ」
町ゆくカップルをうらやましく思うのは相当重傷だ。下手に外で夕飯ととるより、大人しく家に帰ってゆっくりした方がいいだろう。
かつん、かつんとヒールの音が雑踏の中に響く。ご褒美として買った服が重い。こんなことなら買わなきゃよかった。
ご褒美、か。自分で買っておいてなんだけれど、ご褒美としてほしかったのは服でもアクセサリーでも、高いランチでもない。零からのお詫びで欲しかったのもそう。私が欲しかったのは、ひとつだけ。
零に、会いたい。
やたらと青い空を眺めながら左手の指輪をなぞる。時折、結婚しているのに別々に暮らしているような感覚に陥ることがある。零が遠くに感じることがある。
この二ヶ月、まともに零と顔を合わせて話していないのだ。一ヶ月前に一度「ようやく落ち着いた」と早い時間に家に帰ってきたと思ったら、その数十分後に「また仕事が入った」と言って慌ただしく家を出ていった。それから一ヶ月の間、零は二度ほど私が寝ている間に家に帰ってきたようだけれど、どちらも私が起きる前に出てしまった。その前の一ヶ月もほとんど同じ。顔を合わせてもものの数分だった。
この間のデートの誘いだって、零が休憩中に職場から電話してきたものなのだ。久しぶりに零に会えることに、デートできることに浮かれていたのに。それでも零を責める気になんてなれやしない。「トラブルがあって日曜は休めない」と言った零の声は少し掠れており、隠そうとしても隠せないほどに疲れの色が滲んでいた。なにより会えない間ほとんど零は休みなく働き倒しているのだ。そんな零に「約束を破って」と怒るなんて、私にはできない。
怒れたら少しは楽になるのだろうか。それとも零の前で泣きわめけば楽だろうか。どちらも結局零を困らせるだけなのに? 私がいくら怒っても泣いても、零の仕事が忙しいことは変わらない。しかも零の仕事は警察、普通のサラリーマンではないのだから。そして零は私が何を言ったって、自分の仕事を放り出すことは絶対にしない。降谷零はそういう男だ。そして私は降谷零のそんなところを好きになってしまったのだから、こんな寂しさは受け入れるほかないのだ。
かつん、かつんとヒールを響かせて家路を歩く。乾いた音が虚しく響く。
家に帰ったのは七時過ぎだった。乱暴に脱いだパンプスが玄関に転がるから、ため息をつきながら靴箱にしまう。
零から来たメッセージをもう一度見る。今日は帰れても遅くなる、その言い方からして帰ってくる期待はしないほうがいいのだろう。
そう、すべては期待しなければいいだけの話なのだ。会えない時間が長いと言ってもたかが二ヶ月。大人の二ヶ月はそう長い期間ではない。遠距離なり単身赴任なりと思えば数ヶ月会えないなんて珍しいことではない。実際結婚前にもっと長く会えない時間が続いたことだってあった。結婚して一緒に住んでいるのだから一緒にいられる日々が当たり前を思わなければいいだけだ。そんなこと、ずっと前からわかっている。
頭ではわかっていても、感情は追いつかない。だってこの家は私と零の家なのだ。零のお気に入りの靴はいつも靴箱にあって、出かけるたびに家に帰るたびに目に入る。食事のときに食器棚を開ければ友人からもらった揃いのマグカップが置かれていて、私はいつも片割れだけを手に取る。そしてなにより、このダブルベッドはひとりで眠るには広すぎて、横になるたびに隣に零を求めてしまう。
見上げた天井がじわりと滲む。今日は駄目だ。どうしても思考が暗くなってしまう。きっと疲れているせいだろう。こういう日は早くご飯を食べて温かいお風呂に入って、さっさと寝てしまうのが吉だ。明日からまた一週間が始まる。仕事をしていれば余計なことを考える時間は必然的に減るだろう。
ベッドに寝転がったまま左手の指輪を撫でた。明日からまた頑張るから、今日だけは少し弱っても許して欲しい。
*
その日、零の夢を見た。どんな夢かは明確には思い出せない。ただ、零の手を強く握る夢だった。
もしかしたら夢ではなく深夜に零が帰ってきたのかと思ったけれど、家の中の見る限りその様子はない。リビングは寝る前の様相そのままだ。
夢のせいか、それとも昨日底まで落ち込んだせいなのか、今日は幾分気持ちは晴れやかだ。寂しいなんて理由で泣くのは大人としてどうなんだと思っていたけれど、バランスを保つためには時には必要なのだと実感する。
その日の仕事も無事終わり、家で一通りの家事を終えると机の上の携帯が鳴った。着信の主は零だ。
「もしもし」
「ああ、俺だけど、今下にいるからもう家に着く」
「へっ」
どうせ「今日も帰れない」とか「帰れても遅くなる」とかそういった類のことだろうと思っていたので、予想外の答えに素っ頓狂な声を上げてしまう。
「え、下って駐車場?」
「もうエレベーター乗った」
「えっ」
そんなことを言っているうちに玄関からドアが開く音がする。本当に帰ってきたようだ。あわててリビングから玄関に向かうと、携帯を片手に靴を脱ぐ零の姿がある。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
久しぶりに零の顔を見て、心が和やかに凪いでいく。自分の家に帰ってきたかのような安心感。帰ってきたのは零の方だと言うのに。
携帯をポケットにしまって、少し背伸びをしてキスをした。唇を離した後、今度は零からもう一度。
「珍しいね、いつも何時に帰ってくるか連絡くれるのに」
「最近そう言って結局帰れないってことが多かっただろ」
ああ、なるほど。だから下手に期待を持たせまいと家に帰る直前に連絡をくれたのか。
「昨日、悪かった。約束してたのに」
そう言って零が渡してきたのは私のお気に入りの駅前のケーキ屋の袋だ。中身を覗くとショートーケーキがふたつ。しかもの季節限定のスペシャルトッピングのものだ。
「ま、これをもらったら仕方ないかな。ふふ、やった」
約束を破ったとき、零はいつもここのケーキを買ってきてくれる。いつもは定番メニューのものなのに今日は限定品とは、やはりいつもより気に病んでいるようだ。
九時過ぎに甘いものというのは少し躊躇われるけれど、せっかく零が買ってきてくれたものだからすぐに頂いてしまおう。この間同僚におみやげでもらった紅茶が合いそうだ。
「零も今食べるでしょ?」
「いや、ふたつとも
の分のつもりだ」
「え、そうなの?」
「そりゃ詫びで買ったんだからな」
確かにそれが自然かもしれないけれど、ひとりで食べるというのも物寂しい。せっかく久々にふたりでなにかを食べたりできると思っていたのに。
「そう……じゃあ紅茶淹れるね」
せめてお茶ぐらい一緒に飲みたい。ふたり分のカップを用意していると、不意に零が後ろから抱きしめてくる。
「どうしたの?」
「……悪い。悪かった、昨日。ごめんな」
零は苦しさを滲ませた掠れた声で、繰り返し謝罪の言葉を口にする。
「そんなに謝らなくても」
零が長い間帰って来ないことも、約束を反故にされたのも初めてではない。いつも以上に謝られたところで心苦しくなるだけだ。
「別にもういいってば。ケーキもらったし」
「寂しい思いばかりさせて、悪いと思っている」
耳に響いた絞り出すような零の声。「寂しい思い」という言葉を聞いて、昨日夢を見たことを思い出す。
昨夜、零の手を握る夢を見た。そう、零に「寂しい」と泣いて手を握る夢だ。零の言葉ではっきりと思い出してしまった。あれは夢ではなかった。私は本当に、「寂しい」と言ってしまったのか。
「……零」
零の腕の中で体を反転させ、零と向き合うかたちになる。私を見つめる零の瞳には暗い影が落ちている。
「約束破られたのも、全然帰ってこないのも怒ってたし、……寂しいとも思ったけど、もういいの」
「……悪い」
「いいってば。ねえ、なんで許したと思ってる? ケーキもらったからじゃないわよ」
零の頬を両手で包んでじっと青い瞳を見つめる。私の目の前に零がいる。手を伸ばせば触れられる位置に、確かにいる。
「零の顔見たら許しちゃった」
我ながらなんて甘い女だろう。謝罪の言葉よりご機嫌取りのケーキよりなにより、ただ顔を見ただけで許してしまうなんて。
「だって、会いたかったの」
高いランチも服もアクセサリーも、大好きなケーキもいらない。そんなの自分ひとりでも買えるから。私が欲しいもの、零に求めるものはずっと変わらない。零に会いたい。抱きしめて欲しい。名前を呼んで欲しい。ただそれだけ。
「零」
一度名前を呼んで、零の顔をじっと見る。
「おかえりなさい」
零にこの言葉を言えることを嬉しいと思う。とても単純なことだけれど、一緒にいられない時間も長かったから。零が私のいる家に帰ってくる。それをなによりの幸せだと感じている。
「ああ、ただいま」
零はすべてを理解したような穏やかな笑みを浮かべて、優しい声で言葉を紡ぐ。いや、きっと聡い零のことだから、私の今の一言で込めた思いのすべてを本当に察したのだろう。
零の腕が私の背中に回る。力強くも優しい腕に抱きしめられると、心まで掴まれるよう。零のことを抱きしめ返せば、この腕の中に世界の幸せのすべてがあるような錯覚に陥る。
満足するまで抱きしめあったら、やっぱりふたりでケーキを食べよう。せっかくふたりでいるのに、ひとりでなんて寂しいじゃない。
ここが私の帰る場所。ここが零の帰る場所。私たちの幸せが、生まれる場所。
Fly me to the moon/ヒロイン視点
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18.07.15