覚めない夢を見させてよ

 友人との電話から、三ヶ月が経った。大学の友人たちも相変わらず零と連絡は取れていないようだ。私もあのあと二度ほど零に電話を掛けてみたけれど、前と同じくただコール音が鳴り響くだけ。
 さすがに、もう私は覚悟を決めた。次の電話で終わりにしようと。
 大きく息を吐いて、携帯の電話帳を開く。ハ行のページの「降谷零」に合わせて発信ボタンを押した。
 コール音がひとつ、ふたつ。最初は激しい鼓動を打っていた心臓が、だんだんと落ち着いていく。
 十回鳴ったところで、またあの自動音声が流れる。その音声の途中で私は電話を切った。
 これで、終わりだ。
 連絡が取れなくなった当初こそなにかあったのではと心配したけれど、ここまで長い間連絡が取れない状況だったり、万が一の最悪の場合が彼に起こっていた場合、すでに携帯は不通になっているはずだ。けれど、電話番号はきちんと通じているし、メールもエラーメールは返ってこない。
 いくら忙しいからといって、携帯が自由に使えるはずの今、電話に出ないのは、単純に出る気がないのだろう。
 そう、私は零に振られたのだ。
「はあ……」
 いざ覚悟を決めれば、意外とすっきりとした気持ちだ。零が初めての恋人だったから当然別れも初めての経験だけれど、意外とこんなものだろうか。それとも、相手を目の前にしての別れ話であればもっと違うものだろうか。
 私は再び携帯を開き発信ボタンを押す。電話の相手は先日零の話をした大学時代の友人だ。
「もしもし、?」
「ごめんね、いきなり。今電話して大丈夫?」
「うん。どうかした?」
「零のことなんだけどね」
 平静を装いながら、零の名前を出した。電話の向こうの彼女もその名に少し驚いているようだ。
「連絡取れたの?」
「ううん。何もないの。だからね、もういいよ。もしそっちで連絡取れても、教えてくれなくていいから」
「え……」
「連絡寄越さないって、そういうことでしょ。何かあったんだったらもう電話完全に通じなくなってるはずだろうし」
……」
 友人は心配そうな声を出す。そんな声を出されたら、私の方が惨めになってしまうじゃないか。
「ちょっとやめてよ、私が振られたみたいじゃない。いいのよあんなやつ。嫌味だし、無駄に自信過剰だし」
「うん…そう、そうだよね」
「そうだよ。完璧主義だから一緒にいると疲れるしさ、よく考えてみれば警察官が恋人って微妙じゃない。心配しなきゃいけないし、忙しいし」
「うん、うん!」
 私の愚痴に、友人は相槌を打って付き合ってくれる。なんていい子だろう。慰めるわけでもなく、ただ私の言葉を聞いてくれることが今は嬉しい。
「よし、、今度飲み明かそう!」
「本当だよもう。遅くまで付き合ってもらうからね」
「どんと来い!」
 それから少し話をして、友人との電話を切った。
 これで、もし彼女や他の友人が零と連絡が取れても私に連絡が来ることはない。これでいい。下手に道を残しておきたくはない。
 大きく息を吐いて、お酒でも飲もうと冷蔵庫を開いた。確かビールが冷やしてあったはずだ。あまりお酒は得意でないけれど、今日ぐらいはいいだろう。
  「あまり飲み過ぎないように。ちゃんと自分の限界把握すること」
 頭の中に、突然その言葉が浮かび上がる。
 それは、昔零に言われたことだ。まだ私がお酒を飲みなれていない頃、零を一緒に家で飲んでいて泥酔してしまった次の日にそう言われた。声もそのままに、鮮明に再生される。
「……っ」
 なんでこんなこと思い出すのだろう。今まで思い出すことすらなかったのに。
 思わずその場にへたり込むと、また零の声が聞こえてくる。
 頑張って、の声が聞きたい、好きだよ。電話で聞いた言葉の数々が、私の耳を犯していく。
 よく学校帰りに二人で歩いた公園、一緒に行った花火大会。零と過ごした思い出が、次々に頭の中に蘇る。頭を振っても、それらが消え去ることはない。
  「すごいな、ずぶ濡れだ。ハンカチじゃ追いつかないだろ。タオル貸すよ。あと上着も」
 また零の声が聞こえてくる。初めてデートした水族館、イルカショーで私がずぶ濡れになったときのことだ。
 セットした髪は濡れて崩れるし、化粧に至っては考えたくもなかった。それでも、零が心配そうな顔をした後笑ってくれて、なんだかこれでもいいかと思えた。そしてなにより、零に貸してもらった上着がぶかぶかで、ときめいたことをよく覚えている。
 そんな感情まで、鮮明に思い出される。
 一緒に行こうと約束してたのに、もう叶わない。
「……っ」
 思い出を振り払うように立ち上がり、棚からアクセサリーボックスを取り出した。そこには誕生日や記念日に零からもらったネックレスとイヤリング、腕時計が入っている。
 それらを全部、ごみ箱に捨てた。これを持っていては、きっとずっと零のことを忘れられない。忘れなくてはいけないのだ。
 携帯のメールもすべて消した。電話帳から番号もアドレスも削除した。写真も、ひとつ残らずごみ箱へ。
 就職にあたり引っ越したこの部屋に、零の痕跡はほとんどない。学生時代の部屋は頻繁に招いていたため零の私物も多くあったけれど、引っ越しのときにすべて零に返した。ネックレスにイヤリング、腕時計、写真を捨てたら、もうこの部屋に零を思い起こさせるものひとつだけ。薬指にはめられた指輪だけだ。
 これも捨てなくてはいけない。右手でその指輪に触れると、ひどく胸が痛んだ。無慈悲に胸を刺すような痛みをこらえて、ゆっくりとそれを外していく。
  「な、なんで私の指輪のサイズ知ってるの?」
  「見ればわかる」
  「……本当に?」
  「悪い、冗談だ。の友達に聞いた」
 この指輪をもらったときのことが脳裏に蘇る。付き合ってから初めて迎えた私の誕生日に、彼の部屋でもらったものだ。まさか指輪をプレゼントされるなんて思ってもいなかったから、とても驚いたのだ。
 零が「俺がはめてもいいか」と聞くから、私は黙って彼に左手を差し出した。零の手によって、私の左手の薬指に銀色の指輪がはめられていく。あのとき抱いた甘く苦しい胸の痛みは、今もずっと続いている。
  「……ありがとう。大切にする。ずっとつけてる」
  「ああ」
 この指輪は、きっとずっとつけているのだろうと思っていた。外すときがくるのなら、きっとそれは再び零から指輪をもらうときなのだと、そう信じていた。
 指輪が、完全に私の薬指から外される。同時に、私の目から涙があふれ出す。
「……っ」
 泣きたくなんてなかった。泣いたりしたら、ただ惨めになるだけだから。そう思っているのに、涙は止まってくれない。零れ落ちては、またとめどなく流れていく。
 嫌いなところだってたくさんあった。嫌味なところにうんざりしたことは多くあったるし、完璧主義で面倒だと思うことも多かった。何よりやたらと自信家で一緒にいて鼻に付くことなんて数えきれない。
 でも、それでも、私は零が好きだった。どうしようもなく好きだった。私の心は、いつだって零でいっぱいだった。
 明確に将来の話をしたわけではなかったけれど、きっとずっと零と一緒にいるのだろうと思っていた。零も同じ気持ちだと根拠もなく信じていた。
 私はどこで間違えたのだろう。疲れてるだろうからなんて気を遣わずにもっと自分から連絡を取ればよかったのか。無理にでも会いに行けばよかったのか。自身の仕事に没頭しすぎたのか。
 それともなにも間違えてなんかいなかったのか。こうなることは必然だったのか。もう私にはわからない。
 泣きたくなんかないけれど、涙はとめどなく溢れ出す。もう私は拭うこともせず、ただ上を向いて涙を流し続けた。
 思い出は全部捨てた。零を思い出させるものはもうこの部屋のどこにもない。それでも、この胸の痛みはきっと一生残り続けるのだろう。







 
16.08.19