覚めない夢を見させてよ

 それからも、似たような日々が続いた。メールはたまにするものの、電話はお互いのタイミングがなかなか合わない。電話をしようと思ったらあちらが夜勤だったり、逆に私が残業だったりと、電話を掛けても仕事中ということが多くなった。そのたびお互いメールで「後で電話する」と送っていたけれど、二人とも仕事の後は疲れていて電話をする余裕がなかなかない。電話はほとんどせずに、メールのやりとりがメインになる。そのメールも、頻度はそう高くない。一度会おうと話も持ち上がったけれど、その日に零に急の呼び出しが掛かってしまい、約束は流れてしまった。
 そんな日々が続いて、約半年。零が再び警察学校に戻る直前、私は零に電話を掛けた。事前にメールして今日が仕事でないことは確認済みだ。警察官だから突然仕事が入ることもあるけれど、それならそれで仕方ないと思いつつ、コール音に耳を傾ける。
 ツーコールで、零は電話に出た。
「もしもし、、久しぶり」
「久しぶり。一ヶ月ぶり?」
 正確には声を聞くのは二週間ぶりだ。二週間前も電話をしたけれど、あちらが仕事の直前で、一言二言話しただけで終わってしまったから。
「ああ、この間はほとんど話せなかったからな……。予定が合わせられなくて本当にごめん」
「いいって、そんなの。お互い様でしょう」
 私だって同年代の社会人としては随分と忙しい自覚はある。私が零に合わせられればきっとそれが一番だとわかっているけれど、そういうわけにいかないのが現状だ。
「もうすぐまた警察学校に戻るんでしょう?」
「ああ、それが終わったら少しは自由もきくかな。いい加減慣れてきたし」
「そっか。私も同じ。一年経ったし、少しは慣れてきたよ」
「そうか……」
 そこで一度、会話が止まってしまう。
 次になにを言えばいいかわからない。ちゃんと話すのは一ヶ月ぶりだと言ったけれど、考えてみれば一ヶ月前も大して話をしていなかった。ちゃんと話すのはいつ以来だったっけ。
 私たち、いつもなにを話していたのだろう。学生時代は、話題が途切れることなんてなかったのに。少し間が空いただけで、わからなくなってしまった。
「……
「あ、な、なに?」
 今まで感じたことのない感覚に戸惑っていると、零が引き戻すかのように私の名前を呼んだ。
「なんでもいいから喋ってくれ。声が聞きたい」
 それは、とても小さな声だった。力のない掠れるような声に、確かな願いがこもっていた。
「な、なんでもって」
「なんでもいいさ。日本昔話とか」
「昔話って……。じゃあ、ええと」
 なにを話せばいいのか迷いながら、私は少しずつ言葉を紡いだ。この間食べたレストランの料理がおいしかったこと、仕事から帰った後深夜番組で見た動物映像が可愛かったこと。
 仕事漬けの毎日だから、話せることはこのぐらいだ。なにを話していたのだろうと考えたけれど、そもそも話せるような話題が今は私の中にないのだ。
「……あ、あと、この間あの水族館のリニューアルオープンのチラシが入ってたよ。予定通りオープンするみたい」
「……」
「零?」
 学生時代によく二人で言っていた水族館の話をすると、今まで相槌を打っていた零が、なにも返してこない。少し大きめの声で呼びかけたけれど、沈黙が広がるだけだ。
「零、ちょっと零?」
 電話の向こうで何かあったのか。少し怖くなりもう一度大きな声で零を呼ぶ。すると、電話口からごそごそと物音がした。
「零? 大丈夫?」
「……ああ。悪い」
 少しの間を置いて、ようやく零は返事をした。その声はいつものはっきりとした芯の通ったものではなく、どこかぼんやりと浮いた雲のようだ。
「……もしかして、寝てた?」
 学生時代でもこんな声、そう聞いたことはない。このふわふわとしたような声は、明らかに寝ぼけたときに出るものだ。
 それを指摘すると、電話の向こうから零の息が聞こえた。きっと図星なのだろう。
「……そんなことは」
「いいよ嘘吐かなくて。怒ってるわけじゃないから」
「……悪い、本当に」
「いいってば。疲れてるんでしょう? 気にしないで」
 零が電話中に寝るなんてよっぽどだ。怒りなんてまったく湧いてこない。むしろ、心配な気持ちの方が強い。
「電話、切るよ。ちゃんと休んで」
「いや、大丈夫」
「でも」
の声が聞きたいんだ」
 零の声が、私の言葉を遮るように私の胸に広がっていく。
 私もずっと、零の声が聞きたかった。あの優しい声で、私の名前を呼んでほしかった。
「零……」
「……悪いな。心配掛けないって言ったのに」
「いいよ、そんなの。心配ぐらい、いくらでも掛けて」
「……」
「零?」
「卒業してから、そんなことばっかり言わせてる。別にいいよとか、大丈夫とか、無理させてばっかりだ」
 絞り出すような、掠れた零の声。弱々しさが感じられる零のこんな声を、初めて聞いた。
「……本当に、悪いと思ってる。だから」
「そうだね、じゃあ、お詫びに何かプレゼントしてくれる? なんでもいいから」
 本当はプレゼントなんていらない。そばにいてくれるなら、なにもいらない。
 でもそれでは零の気が済まないだろう。だから何かねだるふりをする。
「ああ、わかった。なにがいい?」
「なにがいいか考えるまで含めてプレゼントでしょ?」
「それもそうだな。了解」
 きっと零は本当になにか素敵なプレゼントをくれることだろう。ねだって申し訳ないと思うけれど、これで零の気が晴れるのならそれでいい。
「なあ、
「ん?」
「本当に、それだけか?」
 しんと静まった水面に雫を落としたみたいに、零の声が波紋のように広がっていく。
「他に何か、あるんじゃないのか」 
「……それだけだよ」

「本当に、それだけだから」
 辛うじて出した声は震えていて、無理をしているのが電話越しにもわかるだろう。
 本当の望みは他にある。プレゼントよりもっと単純で、でも今の私たちにはとても難しいこと。
 それを言葉にすることが、私にはできない。言ってはいけない気がするから。これを言ったら、いろんなことが壊れてしまうような、そんな気がした。
「……わかったよ」
「うん……零、もう切るよ」
「そう、だな。もう遅いし。は明日も仕事?」
「うん」
「そうか、頑張って」
「零も……」
 頑張って。そう続けようとしたけれど、言葉は喉の辺りで詰まってしまう。
 だって零はすでにこれ以上ないぐらいに努力を重ねている。さらに「頑張って」なんて気軽に言えるはずもない。これ以上頑張ったら、零が壊れてしまうような気すらする。
?」
「あ……あんまり無理しすぎないでね」
「……ああ、わかってる。も」
「ありがと。じゃあ、またね」
「ああ、また掛ける」
 電話を切ると、一気に虚無感に襲われる。
 零は本当に大丈夫だろうか。電話の最中に眠ってしまうなんて相当疲れが溜まっているのだろう。このままだと倒れてしまうのではないだろうか。
 警察学校に戻ればまた携帯は使えなくなる。しばらくは連絡の取りにくい日が続きそうだ。
 警察学校が終われば、きっとこんな日々は終わる。きっと、大丈夫。そう信じているけれど、不安がないわけじゃない。
 警察学校が終わったからといって、前みたいに戻れるだろうか。好きだという気持ちは決して薄れていない。気持ちが離れたわけじゃない。しかし、実際話をしてみると何を話せばいいかわからない。学生時代に感じたことのない戸惑いは、不安を煽るには十分すぎるものだった。
 しばらくは会えないどころか、連絡を取るのもままならない状況が続く。
 私たちは、また前みたいに戻れるのだろうか。不安を抱いたまま、携帯に液晶に映る零の名を指で撫でた。
  





 
16.08.19