※安室さんに片思いして失恋した女子高生の話
※夢小説と言うよりモブ女子高生から見た安室透という人間の話かも
わたしの初恋は高校二年生のときだった。女子としては少し遅めのその恋の相手の名前は安室透。高校近くの喫茶店ポアロでアルバイトをしていた人だった。
ポアロに入った理由はとても単純で、友人に「あの喫茶店にかっこいい店員さんがいるんだよ」と誘われたからだった。人並みにミーハーだったわたしは芸能人でも見に行くかのような高揚感を持ってその喫茶店に入った。
「いらっしゃいませ」
喫茶店のドアを開けて真っ先に目に入ったのは色黒のスマートな男性店員だ。一目でわかった、彼が噂の「安室さん」だと。甘いルックス、スマートな接客、なるほどこれは人気になるのも頷ける。その日は一番安いココアを飲みながら、じっと安室さんのほうを見つめていた。
喫茶店を出たときには、すでに胸の高鳴りを自覚していた。
それから何度か友人と一緒にポアロに足を運んだ。アルバイトもあまりできないわたしたちは毎回一番安いココアを飲むだけだったけれど、安室さんはいつもにこやかに対応してくれた。今思えば店員なのだから当たり前なのだけれど、高校生だったわたしたちにとっては舞い上がるほど嬉しかった。
安室さんに恋をしたことに、大きな理由があるわけではなかった。穏やかな優しい笑みに、同世代の男子とは違う大人の魅力。しかしこちらを子どもと言ってバカにすることもない。安室さんに会うと胸が弾む、心が色めく。ポアロに通ううちに、彼のことをもっと知りたいと思った。バイト中の安室さんにプライベートのことを聞き出そうと質問を投げかけたこともある。しかしその質問はいつもふわりと誤魔化された。高校生だったわたしたちは、安室さんのそんなところも大人に思えてかっこいいと騒いでいたのだけれど。
ある雨の日のこと。わたしはひとりポアロに入った。雨のせいかほかのお客さんはひとりだけ。その人もわたしと入れ替わりで会計を済ませお店を出た。厨房のほうも安室さんひとりだ。いつもこの時間は梓さんがいるはずなのに買い出しだろうか。
いつものように一番安いココアを頼んで、カウンター席から厨房で作業する安室さんを見つめる。どうやらケーキを作っているようだ。わたしのほかにお客さんがいないことを考えるに、おそらく試作品なのだろう。いつか商品化されたら頼んでみようか。
じっと安室さんの手元を見つめていると、安室さんが視線を自身の手元からわたしのほうへと移した。
「そんなに見つめられると照れちゃいますね」
安室さんはにこりと笑う。その笑みに照れなど微塵も感じられない。わたしのほうが恥ずかしくなって、思わず顔を伏せた。
「ああ、すみません。不躾でしたね」
「い、いえ……」
「雨、止みませんね」
しんと静まった店内に、有線の穏やかなメロディと雨音が響く。
なんだか、無性にドキドキする。安室さんを見ているときはいつもそうだけれど、二人きりだからだろうか、雨のせいだろうか。
今、好きと安室さんに告げてもいいだろうか。今日を逃したら、こんな機会は二度と訪れないような気がする。顔を伏せたまま視線だけを安室さんへ向ける。目が合って、またわたしは視線を伏せた。
「あの、安室さん」
「はい?」
「好き、です」
言った。言ってしまった。言った瞬間に、言わなければよかったかもと後悔がよぎる。しかし、言ってしまった言葉はもうわたしの中には戻せない。
ぎゅっとココアのカップを握って、安室さんの次の言葉を待った。
告白がOKされるなんて思っていない。何か答えて欲しいわけでもない。ただ、初めて抱いたこの想いを伝えたかった。
ドクン、ドクンと心臓が跳ねる。雨音と静かな音楽だけの店内に、私の鼓動が響いてしまいそうだ。
かたん。安室さんがボウルを置く音が響いた後に、彼の口が開く。
「ありがとうございます」
その声は、いつもとなんら変わらなかった。
「いらっしゃいませ」と言っているかのようないつも通りの笑顔と、お会計のときのようなトーンの声。なにも、なにひとつ変わらない。
わたしの告白は、かわされた。断られたのではない。するりとかわされた。わたしの伸ばした手は、彼に一切触れることなくかわされたのだ。
安室さんが、わたしの放った「好き」という言葉の真意をわかっていないはずもない。恋愛としての「好き」だとわかった上で、彼はわたしの告白をいなしたのだ。
断れるより、ずっとショックだった。手元のココアから、視線が上げられない。
断れるだろうことは思っていた。大人の安室さんが、わたしのような高校生を相手にするはずもない。しかし、こんな答えは想像していなかった。「ごめんなさい」って、困ったように笑うかな、なんて思っていた。こんなふうにかわされるなんて思っていなかった。
わたしは安室さんのことをなにもわかっていなかった。ただの店員とただの客なのだから当たり前のことだけれど、わたしは彼のことを何一つわかっていなかったのだと、あの答えで痛感した。
「戻りましたー。あ、いらっしゃい!」
からんからんとドアの開く音と同時に、梓さんの明るい声が飛び込んできた。はっと顔を上げて、精一杯の笑顔を作って「こんにちは」と彼女に告げた。「ゆっくりしていってくださいね」と話す明るい梓さんの笑顔に救われる。どうにかわたしはココアを飲みきって、雨の中傘をさしてひとりで帰路についた。
あの日からポアロへは自然と足が遠くなった。告白の一件のせいでもあるし、高校二年生の後半となれば受験勉強も少しずつ本格化してくる時期だ。のんびりと喫茶店で談笑している場合ではなくなった。
それからほどなくして安室さんがポアロを辞めたと聞いた。詳しいことはわからなかったけれど、きっと本業の探偵業が安定したのだろうと勝手に思った。
わたしの初恋は、あっけなく終わった。
わたしの小さな初恋から三年。大学生になったわたしは親元を離れ大学の寮に住んでいる。高校のあった米花町には卒業以来行っていない。失恋直後はよく思い出していた安室さんのことも、いつの間にか記憶の奥底にしまわれていた。
その思い出が突然顔を出したのは、大学近くの喫茶店に入ったことがきっかけだった。
こじんまりとした、少し年季の入った喫茶店。そこにいた若い店員さんの名前が、「安室」さんだった。それほど見ない名字だけに、わたしはすぐに高校時代の片想いの相手を思い出す。懐かしくなって思わずあの頃のようにココアを頼んだ。
あの安室さんは、今なにをしているのだろう。いや、探偵業に勤しんでいるのだろうか。確かあのとき二十九歳と言っていたから、今は三十二歳か。あのときは年の割に若い見た目だったけれど、今もまだ若いままなのだろうか。
ぽつぽつと高校時代のことを思い出す。安室さんに会いたくてポアロに通い詰めた日々のこと。ただの店員と客という関係性だったけれど、わたしは安室さんのことが好きだった。
そう、確かに好きだった。
それなのに、なぜだろう。彼のことをうまく思い出せない。
いや、記憶はある。浅黒い肌に明るい髪色、少し垂れた目は青かったはずだ。思い出せるけれど、思い出せない。思い出そうとしても、なにかひとつ厚い膜が邪魔をしてはっきりとしない。ひとつひとつは思い出せても、どこか輪郭がぼやけている。いつも見せていた彼の笑顔が、舞台の上の仮面のような、まったく違う世界のことのように思えてくる。
三年も前のことなのだから記憶がぼやけるのも当然だろうか。いや、でも同じ店員の梓さんのことはしっかり思い出せる。すこし天然で可愛らしい梓さん。彼女のことはぼやけることない。梓さんは、確かにそこに「いた」人だ。
安室さんの記憶のぼやけた感覚は、一体なんなのだろう。ああ、そうだ。告白したときにも少し感じた、かわされた感覚に似ている。
精一杯の気持ちでわたしは安室さんに好きだと伝えた。しかし彼はわたしの告白を受け入れることも拒絶することもなく、ただ「ありがとうございます」と答えた。伸ばした手をかわされた瞬間だ。
今安室さんのことを思い出そうと記憶に手を伸ばしても、するりとかわされる。虚空をつかむかのように、思い出しても思い出しても彼の芯がなにも出てこない。思い出すのは仮面のような笑顔だけ。彼の「本当」が、見えてこない。
まるで、彼がポアロになんていなかったかのように。
ふと怖くなって、高校時代の友人にメッセージを送った。「安室さんって覚えてる?」返事はすぐに来た。
「誰だっけ?」
見た瞬間に背筋が凍る。
いや、違う。彼女はきっと忘れただけ。わたしたちがポアロに通っていたのは半年に満たない期間だったし、なにより彼女はわたしほどの情熱を持って安室さんに接していたわけではない。
そう、だから覚えていないだけ。わたしがうまく思い出せないのも、時がたったから。それだけ。
それでも、ひとつの考えがわたしの頭をよぎる。
安室透という人間は、本当に実在したのだろうか?
幻
18.04.28