星の名前





 安室透、バーボン、そして降谷零。三つの仮面は切り替えはできている。頭の中でスイッチを押せばなんの問題もなくそれぞれの自分になれる。本当の自分の役目を迷うこともない。潜入調査は向いていると自負している。
 ただひとつ厄介なのは昔の知り合いに会ったときだ。特別親しかった人間の現在の居住地や勤務先はある程度把握しているため鉢合わせになることはあまりないが、それでも避けられない遭遇はある。大学時代の恋人のとの遭遇は、まさに想定外の再会だった。
 が今米花町から数駅の会社で働いていることは知っていた。しかし、その職場からの今暮らす家までは米花町と反対方向、大きな町もそちら側にあるので近いと言えどポアロ周辺に来ることはほぼないだろうと踏んでいたし、来たとしても「降谷零」の名前を呼ぶのなら別人だと、他人の空似だとかわせばいいだけだ。だが彼女はポアロにやってきて、俺のことを「安室くん」と呼んだ。おそらく彼女はポアロで俺が「安室さん」と呼ばれたのを聞いていたのだろう。そしてその名前で呼ばなければかわされることも理解したのだろう。
 一瞬の内に思考を巡らせ、どの返答が最適かを導き出す。彼女の素性はわかっている。警察組織とも裏の組織とも無縁の一般人。ただのひと。俺の素性を探るための呼びかけでないことはわかっていた。だから「お久しぶりです」と話を合わせた。

 それから数ヶ月がたった今、と過ごす時間が多くなった。と言っても週に一度もしくは二週に一度、数時間の話だ。九割がの部屋で、残りの一割は車の中。夜更けから朝方までともに過ごすだけ。どこかに出かけたりすることはない。
 は「降谷零」を知っている人間だ。それでも今は俺のことを「透」と呼ぶ。そう呼ぶように言ったのは俺だけれど、は今まで一度も呼び間違えたことがない。呼び慣れないであろう「透」という名を、何時も崩さない。そんな彼女だからまた側にいられるのだけれど。
 の部屋で過ごすときは、ただ隣で眠るだけのときもあるし、体を重ねることもある。どちらにせよとともに過ごす時間はひどく穏やかだ。休みなどないに等しい今の自分には、数少ない凪いだ時間。
 のベッドは一般的なシングルベッドのため、隣に眠るだけで体が触れ合う。それすらも心地いい。今夜のように肌を重ねていれば尚更だ。直に触れる肌からだんだんとの体温が上がっていくのが伝わってくる。赤らんだ頬にキスを落とすと、腕の中のが身をよじる。逃がすまいとの右腕をシーツに押しつけた。元より繋がった今逃げられるはずもないのだけれど。
「どこに行く気ですか」
 少し低い声を出すと、はきゅっと目を瞑る。にはどちらかというと綺麗という形容詞のが似合うけれど、こういうときは可愛らしい。
 そう、は綺麗だ。大学時代に初めて見たときから思っていた。それは顔の造形もそうだし、立ち姿や小さな所作、ほんのり赤い唇が紡ぐ言葉も柔らかい笑い方も。それは十年たった今も変わっていない。いや、寧ろあのときより綺麗になったとすら思う。
「ま、って」
「待てませんよ」
 制止の声を遮って腰を動かすと、が一際高い声をあげる。聴覚を犯すその声は、興奮を煽るには十分すぎる。
 ひとつになる時間は心地いい。頭の中には目の前にいると快感だけが広がっている。余計な思考は消し去って、熱を持った体に従えばいいだけだ。
「あ、ん、あ……っ!」
 の声が、体が、絶頂に近いことを叫んでいる。どろどろに溶けたような快感の表情が愛おしい。普段凛としたが、他に何も考えられないとばかりに自分を求めてくる姿が狂おしいほどに好きだと思う。もう俺の方も限界が近い。より深く繋がって、ふたりで快感に深く溺れていく。
 が俺の背中に腕を回してしがみつく。少し伸びた爪が、小さく背中を引っかいた。
「零……っ」
 爪を立てた瞬間のの言葉に、耳を疑った。その、名前は。
「あ、んっ!」
 その名前を聞いた瞬間に、頭の中の糸が切れた。噛みつくように乱暴なキスをして、無我夢中で腰を動かした。
 まさかこんな形で。よりによってこんなときに。いや、こんなときだからこそか。ああ、くそ、頭が割れそうだ。ぐちゃぐちゃな思考のまま、避妊具越しにの中に精を吐き出した。




 夜が明け時刻は午前六時。早いけれどもう出なくてはいけない。庁舎のほうに仕事が残っている。むしろ最近にしては長居ができたほうだ。が眠っている間に書き置きだけ残して去ることもままあるから。
「もう行くの?」
 まだ眠いのだろう、は寝ぼけた声のままあくびをこらえた。
「ええ、朝ご飯ぐらい食べていきたかったんですけど」
「ん……いいけど、眠くないの?」
「そりゃ多少は」
 結局きちんと眠った四時間もないだろうか。眠いと言われれば眠いけれど、このぐらいは慣れている。
「最近そんなのばっかりだけど、大丈夫?」
「まあ、どうにか」
「……無理して来なくてもいいよ」
 言っておくけど、文句じゃないからね。は心配そうな表情で付け加えた。
 の言葉は正しいのだろう。の部屋までの往復の時間を考えれば自分の部屋で眠っていた方が体にはいいはずだ。それか庁舎の仮眠室で眠ってもいい。いずれにしてもわざわざの部屋に来て行為に及ぶよりいいだろうことはわかっている。それでも俺はここに来る。多少無理をしてでも。
「なんで俺がここに来てると思ってる?」
「え……」
に会いに来てるんだ」
 無理をしている理由はそれだけだ。に会うために、触れるためにここにいる。
 ただの暇つぶしじゃない。ただ性欲を満たすためだけの存在じゃない。ここにいるときだけに感じられる充足感と安心感を求めている。
「……バカ」
 俺の言葉を聞いたは、微かに頬を赤らめる。一瞬視線を泳がせて、細い指で俺の腕に触れる。少し震えたその指は名残を惜しむかのようだ。
 といる時間は心地いい。しかしこの別れの瞬間だけは好きではない。
「……
 触れたの右手に、そっと自分の左手を添えた。
「昨日の夜、なんて言ったか覚えていますか?」
「夜?」
「真っ最中」
 そう言った瞬間にが顔を赤らめ、そしてすぐに慌てて俺に問いただす。先ほどと違い沸騰したかのように真っ赤な頬だ。
「えっ、待って、な、何か変なこと言った?」
「覚えてないならいいんですよ」
「え、やだ待って!」
 慌てふためくの姿が可愛くて、俺は思わず笑みをこぼした。覚えていないならそれでいい。下手に覚えているよりずっといい。きっとは申し訳なく思うだろうから。
「大したことじゃないですよ」
「や、やだ余計気になるじゃない」
「どうしても聞きたいですか?」
「き、聞きたいけど」
「後悔するかもしれませんよ?」
「そんなに変なこと言ったの!?」
 珍しくおろおろとするを見て、悪いと思いつつ心が和む。こんな一瞬一瞬が愛おしい。
「思い出せないなら教えません。墓場まで持って行きますよ」
 この話題を終わらせるべく放った言葉に、の表情が一瞬にして沈んだ。ぎゅっと俺の腕をつかんで、不安そうに口を開く。
「……地獄まで一緒って言ったでしょう?」
 の震えた声に、考えるより先に彼女を抱きしめた。
「ええ、そうですね。そうだった」
 地獄まで付き合ってもらいますよと、確かに言った。しかしそんなに脅えた表情で確かめられるなんて思っていなかった。
 この手を離せば、は地獄なんて言わないまま、おそらくどこかの誰かと幸せを紡ぐだろう。いや、のことだからひとりでも強く芯を持って幸せを掴むかもしれない。そんなことはもうずっと前からわかっている。それでも二度とこの手を離さないと決めたのだ。を不幸にしようとも、ともに地獄に堕ちようと、それでもいいと。
「約束は違えません」
「絶対よ」
「ええ」
 小さくキスをして、体を離す。もう出なければいけない時間だ。
「そろそろ行かないと」
「ん」
 は惜しむように背中に回した腕を解く。ひとつ呼吸を置いた後、柔らかい唇を開いた。
「透」
 もう聞き慣れてしまったその名前。は穏やかな笑みを浮かべて、次の言葉を紡いだ。
「行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
 最後にもう一度キスをして、の部屋の扉を閉めた。
 の呼ぶ「零」の名前を次に聞けるのはいつだろうか。がその名前を呼べるのは、いつになるのだろうか。惚けたときではない、意志を持ってはっきりとその名を呼べる日を、どんなに遠くとも諦めはしない。







星の名前
18.05.03



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